卒業生のキャリア公務員

ロボコン指導に情熱を燃やし続けて32年! 高専出身の校長が工業高校で育む「ものづくりの心」

SHARE

この記事のタイトルとURLをコピーしました
公開日
取材日
ロボコン指導に情熱を燃やし続けて32年! 高専出身の校長が工業高校で育む「ものづくりの心」のサムネイル画像

新潟県立新津工業高校の校長として学校運営を指揮する藤澤満先生は、長岡高専の卒業生です。長岡技術科学大学へ進学し、ロボコン指導への情熱を胸に工業高校の教員になられました。高専で育んだ主体性と探究心を今の教育に生かし続ける、その歩みに迫ります。

自由な環境で育まれた、ものづくりと制御への関心

―長岡高専に進学したきっかけを教えてください。

中学生のころ、両親にパソコンを買ってもらったことがきっかけです。当時はファミコンをはじめとしたゲーム機は一切買ってもらえなかったのですが、その分パソコンでのプログラミングに夢中になりました。近所のパソコンショップをのぞいたり、友だちとプログラムの本を読み漁ったりするうちに、「こういう勉強がたくさんできる学校に行きたい」と思うようになりました。

受験時は電気工学科に強い関心がありましたが、親や中学の先生から「合格は難しい」と言われて断念し、第一希望を機械工学科、第二希望を電気工学科としてダメもとで受験しました。今となれば、当時の興味の根幹はメカトロニクス系だったのだと感じていますので、機械工学科に進めてよかったと思っています。

―高専で良かったと感じたことや、思い出に残っていることを教えてください。

高専生活で一番よかったのは、高校と違って入学当初から「大人扱い」してもらえる環境だったことです。クラスに留年した先輩が当たり前のようにいて、特別感もなく自然に溶け込んでいました。友人のアパートで朝方まで将来のことをあれこれ語り合ったり、卒業前は深夜まで学校に残って卒業論文に取り組んだりと、無断で自宅へ帰らないこともありましたが、両親もそれを普通に受け入れてくれていました。

部活はバスケットボール部に所属していました。当時は三条市に住んでいて、長岡高専の最寄り駅まで電車で30分ほど。入学後は電車と徒歩で50分ほどかけて通学していました。自動車やバイクの免許を取得するまでは、練習が終わると、高専から最寄り駅まで走ってバスに乗り、電車に乗り換えて21時ごろ帰宅。授業の復習をして寝るだけの毎日でしたが、それでも充実していた記憶があります。

▲バスケットボール部での1コマ。入部当初は20歳の先輩が大人びていて、話しかけられてもまともに返答できなかったそうですが、自身が20歳になったときは、部活後に1年の通学生を自宅まで送ってあげていたそうです

また、90分授業には最初こそ戸惑いましたが、専門書を使った授業は自分で考える場面が多く、数学が好きだったこともあって楽しかったです。参考書がなくて苦労したこともありましたが、それも含めていい経験になっています。

―当時の研究内容について教えてください。

高専での卒業研究は、有限要素法を活用するためのプリプロセッサの制作で、一言でいえばプログラミングです。計算させるデータをテンキーで手打ちするのは大変なので、入力を効率化するためのプログラムを追加していくような内容でした。

もともとプログラミングが好きだったので取り組みやすかったのですが、他の研究室に配属された仲間が卒業研究として取り組んでいた競技ロボット(相撲ロボットやマイクロマウス)の製作に触れるうちに、制御系のおもしろさに引き込まれていきました。その関心が、進学後の研究テーマにもそのままつながっていきました。

ロボコンとの出会いが導いた、ものづくり教育の道

―高専卒業後は、長岡技術科学大学に進学されていますね。

はい。長岡技術科学大学は、全国の高専だけでなく、商船高専や普通高校、工業高校出身の学生も集まっていました。さまざまな出身地を持つ仲間ができたのは、とても良かったです。

学部3年に編入してからの半年間は、毎週のようにテストがある怒涛の日々でしたが、夜になると友人とドライブするのが息抜きでした。

―大学・大学院では、どのような研究に取り組まれていたのですか。

大学では、制御理論の実装をメインテーマとした研究に取り組みました。大学院では、シミュレーションと実験を繰り返しながら、柔軟構造物のロバスト振動制御について研究していました。

また、長岡技術科学大学には大学・大学院一貫教育の仕組みがあり、学部4年のときには半年間、企業の研究所でインターンシップを経験できました。大学で学んだことが、実際の研究開発の現場でどのように生かされているのかを知ることができた、貴重な機会でした。

研究室では、仲間と議論を重ねながら、ときにはゲームをしたりしながら(笑)、夜中まで実験に打ち込んでいました。冬には夜中まで研究したあと、そのままスキー場に向かって早朝からゲレンデを滑り、午前中に仮眠をとる——そんな生活を繰り返していたこともありました。

▲大学4年生のときの藤澤先生。研究中の様子

―そこから教職を志すようになったきっかけを教えてください。

転機になったのは、大学院1年のときです。研究室がロボットコンテストに出場することになり、院生として製作フォローを担当しました。その経験が、「ものづくりの指導に携わりたい」という気持ちの原点になり、教職を選んだきっかけとなりました。

当初は高専教員も視野に入れていましたが、博士課程への進学は考えていませんでした。そんなとき、地域イベントでたまたま工業高校のロボットコンテストを見かけたんです。限られた予算ながらもアイデアが非常に秀逸で、とても感動しました。その経験から「工業高校の先生になろう」と決意しました。

▲大学院1年生のときに研究室で出場したNHK学生ロボコンでの記念写真。このときは初出場で技術賞を受賞。翌年、みんなで本気で優勝を目指したものの、決勝で敗れて準優勝となり、悔しい思い出になったとのこと

大学院2年のときには、縁あって工業高校の非常勤講師も経験しました。実際に高校生と関わる中で、ものづくりの面白さを伝える仕事への思いがより強くなっていきました。

―教員人生の中でも、ロボコン指導には特に力を注がれていたそうですね。

はい。採用試験の面接で「もしあなたを採用したら、どんな良いことが起こりますか」と質問されたことがあります。すごい質問でしょう。そこで私は「新潟県の工業高校からロボコン日本一が出ます!」と堂々と宣言するほど、ロボコンへの思いは本気でした。

今年で教員32年目になりますが、最初の赴任校からロボコン指導に燃えていました。季節ごとの大会・予選に向けて練習を繰り返し、シーズンが終わってほっとしたと思えば、またすぐに翌年に向けた製作の日々へ。常に「来年こそは日本一に」という気持ちでサポートを続けていました。残念ながら日本一にはなれませんでしたが、教員になってから結果につながった経験も得られ、手応えを感じました。

▲新潟工業高校の教員だった頃、全国高等学校ロボット競技大会で3位を記録。教員時代の最高記録となりました。白いアウターを着ている先生は大学時代の同級生で、藤澤先生が異動された3年後に同校で全国制覇。優勝した瞬間の感動は今も忘れていないそうです

楽しかった思い出といえば、ロボコンの合宿です。学校が花火の打ち上げ場所に近かったので、花火を見る時間だけは休憩にして、それ以外はひたすらロボットづくりに打ち込む。最終日には朝まで作業を続けることもありました。

作業明け、朝方にみんなでプールに入ってはしゃぐと、「ようやく合宿が終わる」という開放感があり、疲れ切っているけれど、どこか清々しいんです。そうした小さな達成感の積み重ねが、「次も頑張ろう」という原動力になり、ロボコンに本気で向き合う空気をつくっていたと思います。

―現在は新潟県立新津工業高校の校長先生をされています。校長として、どのような学校づくりを大切にされていますか。

校長の役割は、教職員一人ひとりの思いを整理し、学校全体の方向性を一緒につくっていくことだと考えています。例えば生徒の前以外では「先生」と呼ばず「さん」付けで呼び合うなど、フラットな組織づくりも意識しています。役割の違いはあっても、上下ではなく対等な関係で動ける職場にしたいという思いがあります。

▲校長になって最初の入学式で式辞を述べる藤澤先生

学校づくりの精神としては、植物の切り株や根元から新しく生えてくる若芽を示す「ひこばえ」の精神を大切にしています。これは、本校が15年ほど前、閉校の危機を乗り越え新しい工業高校として生まれ変わったときの様子を表す言葉として、好んで使われてきました。どんな場所にいても、力強く新芽をのばす生徒になってほしい。そんな思いも込められており、大切にしています。

また、この学校は校歌の一節に「工業をもて人を益せん」という言葉を持っています。ものづくりを通じた社会貢献を柱にしながら、生徒がものづくりを嫌いにならず、DIYでも何でも、生涯ものをつくる楽しさを持ち続けてくれるような学校でありたいですね。

―新津工業高校ならではの特色についても教えてください。

全国でも特にめずらしいのは「日本建築科」でしょう。現役で活躍している熟練技能士の方が毎週学校に来て、伝統建築の技を直接指導してくださいます。鉋(かんな)とノミの使い方からはじまり、釘を使わずに木を組み上げるといった日本独自の技を匠から教わり、未来の宮大工を育てています。

▲依頼を受け、新潟県立植物園内で東屋を施工している時の様子
▲完成した東屋

また、通常の工業高校では「実習」は午前か午後のどちらかにまとめるのが一般的ですが、本校では実際の建築現場を想定して丸一日の実習日を設けるなど、本物の技とリアルな現場に触れられる機会を大切にしています。

「学ぼう匠の技と心!」を合言葉にして、生徒・教職員ともがんばっています。

▲中庭に茶席と待合をつくるため、柱などに使う部材を製作している生徒のみなさん
▲完成した茶室で生徒と茶会。日本建築科は「原寸で本物をつくる」ことを大切にしており、現役の熟練技能者が毎週学校にきて、直接指導してくれるおかげで、それが可能になっているとのことです

マイノリティこそ強みになる

―今後の目標を教えてください。

これからも、生徒がものづくりの楽しさを肌で感じられるような学校づくりを進めていきたいと思っています。ものをつくることは、自分の手で考え、工夫し、形にしていくことです。その面白さを在学中にしっかり感じてもらい、卒業後もものづくりを身近に楽しみ続けてもらえたらうれしいですね。

私自身も、プライベートではライフワークとしてのものづくりを続けていきたいです。ゴールデンウィークに万年カレンダーをつくったり、年末年始にはAIを使ってプログラミングを楽しんだりと、凝り性なところは昔から変わっていません(笑)。校長という立場になっても、自分で手を動かして何かをつくる楽しさは、これからも大切にしていきたいです。

▲藤澤先生が製作された万年カレンダー&サインプレート。左は校長室に取り付けていて、在室表示プレートとして活用されているとのこと。画面の書き換え時以外は電力を消費しないものであり、これからもエコに注目しながらものづくりを楽しみたいそうです

そして個人的な願いとして、高専・大学時代の同級会にもいつか参加したいと思っています。これまで一度も参加できておらず、当時はスマホも携帯電話もなかったため、多くの同期と連絡が途絶えてしまいました。この記事を見てくれた当時の仲間がいれば、ぜひ連絡をいただけるとうれしいですね。当時を知る人とまた顔を合わせ、思い出を語り合えたら何よりです。

―最後に、高専生へのメッセージをお願いします。

高専は、何事も自分たちで主体的に動かなければいけない雰囲気の学校です。部活での練習メニューも遠征の計画も全部自分たちで考えましたし、生活全般が学生の自立心に委ねられていました。そうした日常の積み重ねが、自分でも気づかないうちに責任感や主体性を育ててくれていたと、今になってしみじみと感じます。

高専出身者は世間の1%程度と言われる少数派ですが、それ自体が強みです。マイノリティであることは、個性であり、他にない経験を持つということでもあります。私自身、生徒の個性を伸ばしたいと思っていますし、高専で積んだ経験が工業高校での教育に直接生きています。

高専は個性豊かな人々が集まる楽しい場所です。高専という場でなければ出会えなかった人たちとの縁が、今の自分を形づくっていると実感します。ぜひたくさん、高専でしかできない経験を積んでください。その全てが、これからの力になるはずです。

藤澤 満
Mitsuru Fujisawa

  • 新潟県立新津工業高等学校 校長

藤澤 満氏の写真

1991年3月 長岡工業高等専門学校 機械工学科 卒業
1993年3月 長岡技術科学大学 工学部 機械システム工学課程 卒業
1995年3月 長岡技術科学大学大学院 工学研究科 修士課程 創造設計工学専攻 修了
1995年4月 新潟県立塩沢商工高等学校 教諭
2001年 新潟県立長岡工業高等学校 教諭
2009年 新潟県立新潟工業高等学校 教諭
2015年 新潟県教育庁 高等学校教育課 指導主事
2019年 新潟県立新津工業高等学校 教頭
2021年 新潟県立新潟工業高等学校 教頭
2022年 同 副校長
2025年より現職

SHARE

この記事のタイトルとURLをコピーしました

長岡工業高等専門学校の記事

東鉄工業記事サムネイル
JR東日本のパートナー会社として、交通インフラを支える鉄道関連工事のリーディングカンパニー。高専出身の中堅・新卒社員に聞く、高専生が選ぶ東鉄工業という道とは
自律心こそが人生を切り開く。4つの教員免許を持つ高校教員の異色のキャリア
外山先生
「技術の継承」をよりスピーディーに! 世界のゲーム・チェンジャー育成のために必要な「教育と姿勢」

アクセス数ランキング

最新の記事

ロボコン指導に情熱を燃やし続けて32年! 高専出身の校長が工業高校で育む「ものづくりの心」
サムネイル
【現地レポート】企業と学校が「互恵関係」で結ぶ未来。過去最多の参加者を集めた「富山高専 技術振興会」総会・交流会
楠瀬先生
「記録」の先にある「継承」へ。新聞記者から高専教員に転身し、学生とともに社会実装に挑む