2024年に大分高専の校長として着任された坪井泰士先生。これまで阿南高専に30年以上勤めながら、全国各地の高専で教員研修や講演会を行ってきました。そんな坪井校長先生のお話を通して見えてきたのは、学生と向き合う熱意と周りからの厚い信頼です。
一番になれなくても頑張る理由
―どういう子ども時代を過ごされましたか。
幼少期は体が弱く、頻繁に高熱を出していました。両親が共働きで、保育所に3年ほど通いましたが、そのうち1年は病院や自宅で過ごしていたぐらいです。また、市外から引っ越してきたため、友達もおらず、特に小学校1、2年生の間は学校に馴染めませんでした。
その後、手術を受けて体調が回復した3年生頃から徐々に学校生活に馴染めるようになり、サッカースクールに通い始めました。中学校では陸上部に転向し、徳島市の大会で入賞したこともあります。高校受験の時には、受験会場で、ある高校の先生から試験前に「合格したら陸上部に入れ」とスカウトされるぐらいでした。
一応、それなりに真面目で、成績もそこそこ良かったので、クラスの委員長など任せてもらうことも多かったです。ちょっとだけ優等生でしたね。
―高校に進学されてからも陸上を続けたのでしょうか。
高校では陸上部からラグビー部に転向して、足の速さを生かしてウィングをしていました。その頃は教員になることも考え始めていたので、いろいろなスポーツをできるようになっておこうと思ったんです。ですが、陸上をやめたもう一つの理由は、限界を感じたからだと思います。「そこそこうまくできたけど、多分一番にはなれないな」と。
ラグビー部も弱いチームだったので、なんとかゼロ敗をしのぐというぐらいで、輝かしい成績はありません。やっぱり強豪校がいて、勝てない。でも、なんとかそこで一矢報いたいという気持ちがありました。ですから、弱くてもみんな熱心で楽しかったです。
そういった経験をしましたので、教員として担任をしていた頃は、学生に「君たちは部活を頑張っても勝つ可能性は高くないし、一番になれる可能性はもっと低いよね。それでも頑張る理由は何だろう?」と尋ねていました。なかなか明確な答えは出てこないんですけど、自分なりの答えを持った学生は強いと思っています。
―進学先に広島大学の教育学部を選んだきっかけを教えてください。
中学の頃は成績が良かったので、高校では進学コースに入ったんです。しかしその途端、定期テストの結果はいつも40人中、よくて37番というレベルに。自身の限界を痛感しましたね。そんな学生でしたから、高校2年の3月には先生から「すべり止めは決めたか」と言われていました。地元の大学が第一志望でしたが、「お前、難しいぞ」と。
普通、同じ進学コースの学生は2年生の夏から受験勉強を始めますが、私は高校3年生の夏までずっとラグビーをしていました。予備校に通った時期もあったのですが、いつも寝てしまうので、予備校の先生から「やめたほうがいいよ」と勧告され、やめてしまいました。
結局、部活で時間のない中、少しでも勉強範囲の少ない科目を選んで、必死に勉強して、今でいうところの大学入学共通テストに挑みました。そうしたら、なんと偶然にも以前解いたことのある英語の長文問題が出題されたんです。そこから調子が出まして、今までで一番良い点を取ることができました。
週が明けて、学校で自己採点結果を提出したら、担任の先生から「点数、間違えてないか」と言われましたね。「間違えていません」と答えたら、「教育に行きたいなら、広島大学に行け」と勧められ、自分にとっては雲の上の存在だった広島大学への進学を決めました。
―晴れて広島大学に進学されたんですね。どんな大学生活でしたか。
失敗談はたくさんありますね。例えば、教育実習として4人の班で広大の附属高校の先生に順番に授業を見てもらう日がありましたが、友達が発表する日に寝坊してしまい、欠席したこと。これは前代未聞で、教授から厳しく叱られました。「教員になる気があるのか。一番休んではいけないところだろう」と言われ、泣きそうになりました。
また、大学では新たに弓道部に入りました。真面目に取り組んだつもりでしたが、レギュラーを取ることはなかなかできず、挫折の連続でした。原因は、先輩のアドバイスを素直に聞かず、自己流で練習を続けたからだと思います。初めのうちは同期の中で最初に矢を的に当てることができましたが、そこで成長が止まってしまったんです。
自己流の型が身についてしまい、後戻りすることもできず、結局そのままの状態で終わってしまいました。当時の私は「的に当たるなら良いだろう」と考えていましたが、今思えばもっと謙虚に先輩のアドバイスを受け入れるべきだったと反省しています。
ほかにも、体育の授業に遅刻して行ったら、その時の実技科目だったバドミントンで先生に思いっきり負かされたり、書道の授業で二度書きして先生から悪例として取り上げられたり……生半可な姿勢はきちんと正され、広島大学の教員のひたむきさを痛感しました。
―その後、普通科高校に教員として就職されています。
大学卒業時に教員採用試験を受けましたが、初回は落ちてしまいました。原因は、試験の直前に4年生の友人たちと沖縄旅行に行ったからだと思います(笑) 試験勉強を怠ったので、当然の結果でした。しかし、幸いにもある高校に講師として雇っていただき、副担任や野球部の顧問を務めながら国語の授業を担当していました。
そして1年の講師経験を経て、再び教員採用試験に挑戦したとき、国語科目の中で漢文の試験があったのですが、なんとその問題が1ヶ月前に自分が授業で教えた内容と同じものだったんです。大学受験時に続き2回目の幸運で、結果、合格者の中でも1番という順位で合格することができました。
こういった経験から、学生たちには「努力は必ずしも報われるとは限らないが、時々神が降りてくる」と伝えています。努力してもうまくいかないのが普通ですが、努力していなければ神が降りてくることはありません。だからこそ頑張る価値があると思いますね。
学生と向き合う熱意で、周りからの信頼を集める
―普通科高校に3年勤められた後、阿南高専の教員になった経緯を教えてください。
当時勤めていた高校、特に私の担当したクラスには、いわゆるやんちゃな学生が多かったんです。ある日、私のクラスの学生が体育の授業に行っている間に盗難事件が発生し、そのクラスが疑われましたが、私はそうとは思えませんでした。
それで、当時の副校長に対して「クラス全体の持ち物検査をしてほしい」と強く要求し、対立してしまったのです。今思えばそんなことは当然できないと分かっているのですが、当時は若かったですね。
そんな中、当時阿南高専に勤められていた広島大学出身の先生から、大学経由で「阿南高専に来ないか」というお誘いがあり、申し出を受けて阿南高専へ転職しました。
―その後、阿南高専に30年以上勤められています。教員としてのご経験をお聞かせください。
初めに勤めた高校もそうでしたが、当時の阿南高専は荒れていたんです。暴走族の特攻隊長やカラーチームのヘッドをしている学生がいたぐらいでした。もちろん、今は全くそんなことはなく、本当に良い学校ですよ。でも、当時は本当に大変でしたね。今の良い阿南高専に至るまでに、私も何割かは貢献したと思っています。
着任してからは、素行の悪い学生を根気よく指導したり、時には決闘を止めに行ったりと、東奔西走の毎日でした。そうするうちに、その取り組みが認められたのか、41歳で教授に昇任、42歳のときに寮務主事に任命され、寮の立て直しを託されました。
当時の寮は、学校の中でも特に荒れていましたから、そこからは毎週寮に宿直して、同じように寮の現状を憂う一部の役員寮生たちを集めて、「どんな寮にしたいの?」「これを改善するためにどうする?」と毎夜話し合いです。当時の学生と策定したルールは、現在の寮(明正寮)の規則の基になっています。
そこで決めた新しいルールを、その年の7月の寮祭で「これからはこのルールで行く。違反したら退寮だ」と発表して、そこから劇的に改善しました。もちろん一筋縄ではいかない学生ばかりで本当に大変でしたが、当時の寮生たちと一緒に何とかやり遂げられました。
その寮生たちが卒業する時に「お疲れさまでした」とネクタイを贈ってくれたことは、今でも良い思い出です。自分で言うのもなんですが、当時は「プチ金八先生」でしたね(笑)
―坪井校長先生は長らく高専教員へ向けた研修や講演等のご活動をされています。これはどういった経緯によるものなのでしょうか。
最初のきっかけは、2004年に独立行政法人 国立高等専門学校機構が発足し、高専機構内で教員研修が行われるようになったことです。そこで呼ばれた最初の講師が私でした。
なぜ私が呼ばれたかといいますと、おそらくこれは当時の高専機構本部に出向していた高専教員が私の学内での活動を評価し、推薦してくださったのだと思います。当時の本部はまだ各校の情報ネットワークが整っていなかったので、その中で直接推薦していただいたことで、私に講師の依頼が来たのでしょう。
初めての研修は本当に大変でした。足掛け3日——1日目の午後から3日目の午前まで、私一人だけで回さないといけなかったんです。2日目の午前の部を終えた時点で「さすがにこれ以上は無理だ」と思い、午後の部に入る前に「この人なら」と思った先生方に声をかけ、その場でつくった台本にあわせたロールプレイをしてもらうなど協力していただき、何とか無事に終えられました。
そのときに声をかけた先生方とは今でもお付き合いがあります。ほかにもこのように研修づてに知り合った先生方から「うちでも講演をしてくれないか」というお誘いがあり、ありがたいことに現在までこういった活動を続けています。校長になってからも、ついこの前、宇部高専で講演をさせていただきました。9月には、香川高専にお招きいただいています。
※FD(Faculty Development)とは、教員が授業内容・方法を改善し、向上させるための組織的な取り組みのこと。
行動力は健在。愛を重んじる大分高専の校長として
―今年(2024年)からは大分高専の校長にご就任されています。大分高専の特色や学校の魅力を教えてください。
まずは教員のレベルの高さですね。科学研究費助成事業(科研費)で基盤研究Aに採択された教員が在籍し、ほかにも企業や研究機関と連携して共同研究を行い、外部資金を確保している教員が少なくありません。「教育と研究を両立する」という意気込みにかけては、大分高専の教員は全国でも指折りだと思います。
もちろん、全国の高専の共通命題である半導体人材の育成や、アントレプレナーシップ教育にも力を入れています。本校ならではの教育事業としては、一関高専と都城高専と協働して農学の素養を持ったエンジニアを育成する「アグリエンジニアリング教育」、そして災害対策へ向けた技術者を育成する「災害レジリエントマインド育成教育」があります。
また、大分高専では学生会・寮生会が積極的に活動しています。新入生オリエンテーションや音楽祭の企画運営はすべて学生が行ってくれていて、たまに学生会からチャットで「音楽祭のパンフレット用のメッセージをください」という依頼などが来ます。教員がすることは会場予約ぐらいです。
ほかにも、「足踏みミシンボランティア」という、学生参加型の国際ボランティア活動を行っています。県内外の家庭から寄贈された古い足踏みミシンを修理し、東南アジア諸国に贈ることで現地の生活や就労を支援するものです。この活動はクラウドファンディングで目標の300万円を大きく超える500万円以上の寄付金を集めました。
―大分高専の校長としての取り組みや、今後の目標を教えてください。
本校の学習教育目標の第一は「愛の精神」です。これは単に誰かを愛することではなく、広い意味での博愛、つまり世界平和に繋がる精神です。その根底には、人が人を慈しむ心があります。学生同士、そして教員と職員が手を取り合い、互いを励まし、支え合う、愛のある学校にしたいと考えています。
阿南高専時代もそうでしたが、私は大分高専でも月に1回程度、学生寮に宿直しています。寮は学生の生活の拠点ですから、学生のリアルな声を聞いて、今後の学校運営に生かしていきたいですね。
また、大分高専は県庁所在地に位置しているため、以前から志願倍率が高く、これまで入試広報をほとんど行っていませんでした。ですが、今後の少子化などを見据えて、今年から入試広報チームを立ち上げ、来年に向けて戦略を練り始めています。そのほか、今まで紙を使って処理していた事務作業を効率化するためのデジタル省力化チームも設けました。
加えて、高専機構のFDマップに対応した体系的な教員研修を本年度中に作成します。私は高専機構からそのプロジェクトリーダーを任されているため、まずは本部が行う研修を作成し、その後、そこを補完する形での大分高専の研修、その他学外研修も含めた包括的な研修体制を同時につくりあげ、整備することが今年度中の目標です。
―最後に、高専生に向けてメッセージをお願いします。
自身は何者か、どうありたいのか、そのために何をするべきか。そのことを常に考え、自分なりの答えを見い出してください。教職員はともに考え、時にはその答えを探すヒントを提供します。
最近、「夢を求め続ける勇気さえあれば、すべての夢は必ず実現できる」というウォルト・ディズニーの言葉に出会いました。これはとてもいい言葉です。不安や悩みがあるときこそ、まずは行動してみてください。一歩踏み出すことで新たな世界が広がり、達成感と挫折は自身の糧となります。
自分を知り、マネジメントし、プロデュースする——パフォーマーとしてだけでなく、自身のマネージャー・プロデューサーとして、自分の人生を楽しく豊かなものにしてほしいと願っています。
坪井 泰士氏
Taiji Tsuboi
- 大分工業高等専門学校 校長
1981年3月 徳島県立城東高等学校 卒業
1985年3月 広島大学 教育学部 国語教育学(現:国語文化系コース) 卒業
1985年4月 徳島県立小松島高等学校 講師
1989年4月 国立阿南工業高等専門学校 一般教科 講師
1999年4月 国立阿南工業高等専門学校 一般教科 助教授
2011年3月 国立阿南工業高等専門学校 一般教科 教授
2016年3月 国立阿南工業高等専門学校 創造技術工学科 教授
2024年4月より現職
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