自然環境下で自転車やトレッキングなどの競技を行い、「世界で最も過酷なレース」と称されるアドベンチャーレース。日本におけるプロアドベンチャーレーサーとして草分け的存在の田中正人さんは、実は東京高専の卒業生です。この道を志した理由について伺いました。
リスクがあるほど燃えるタイプ
―高専に進学を決めた理由を教えてください。
幼少期から化学実験に興味があり、調味料や母親の化粧品を混ぜて遊ぶような少年でした。どんな反応が起きるのか知りたかったんでしょう。そして、中学の授業で化学反応式を本格的に習うようになり、「化学」という分野にのめりこみました。
もっと化学の勉強をしたいと感じ、早いうちから普通高校への進学は選択肢から外れていました。そんなときに友人から「高専が合っているんじゃないか」と紹介されたのです。そこで初めて高専の存在を知り、調べるほどに「まさに自分にぴったりな場所だ」と感じて進学を決めました。
―実際に入学していかがでしたか。
想像以上に専門的な学習ができて感激しました。しかし、それ以上に個性的な友人たちの多さに驚きましたね。東京高専は東京南西部の八王子市にあり、少し歩くと高尾山という有名な山があるのですが、入学して2週間ほど経った頃に「今日はお昼ごはんを高尾山で食べよう」とクラスメイトの間で盛り上がり、実際に登ったことがあります。案の定、午後の授業には間に合わず、大半が戻ってこない事態になりました(笑)
このように、突拍子もないことを発案し、そこに賛同する人が多かった印象です。また、性別や宗教などの違いも受け入れ、とにかく一人ひとりを尊重してくれる環境だったと思います。どんなことも「個性」として認める人ばかりで、居心地が良い学校でした。
―卒業後、企業の研究所に就職したのはなぜですか。
化学の世界で生きていくと決めていたので、これ以上勉強をするよりは早く現場に出て実践したかったからです。就職したのは「大内新興化学工業」の中央研究所で、有機ゴム薬品の初の国産化を実現した会社です。私は、新規事業部で医原薬(医療品原薬)やファインケミカル素材をつくる研究を担当しました。
国内トップシェアの会社ではありましたが、大企業ではなかったので、分業するというよりは、最初から最後まで責任をもって任される現場がほとんど。だからこそ、非常にやりがいがありました。
通常の会社では敬遠されがちな「硫黄化合物」や「シアン系化合物」などの毒性が強いものも扱っていたので、防毒マスクをしたり使った作業服を焼却処分したりするのは日常茶飯事。緊張感もありましたが、私はリスクがあるほうが燃えるタイプなので楽しかったです。
自分の弱さと決別し、アスリートの世界へ
―田中さんが携わっているアドベンチャーレースについて教えてください。
アドベンチャーレースは、海、山、川、ジャングル、砂漠など、ありとあらゆる自然が舞台です。体力はもちろん、精神力や適応力なども駆使して、チームとともにゴールを目指します。世界標準とされる競技条件は「男女混成の4名のチームであること」「スタートからゴールまで、夜間行動も含めて3日以上の長距離レースであること」などです。
足が速いとか運動神経が良いというよりは、長時間動き続ける能力や、戦略を立ててチームをナビゲーションする能力が求められます。
―アドベンチャーレースとの出会いを教えてください。
私、運動神経は悪いほうなんです。瞬発力が弱くて、中3の頃は50m走のタイムが9.6秒でした。でも、持久力には人一倍自信があり、誰よりも速かった。高専入学後、そんな噂を聞きつけた友人が「オリエンテーリング同好会に入らないか」と誘ってくれました。
オリエンテーリングとは、森の中を地図上に表示されたチェックポイントを回り、ゴールまでのタイムを競うものです。山道から外れて木々をかきわけながら入っていく感覚が楽しくてすぐに夢中になりました。現在地の把握を怠ると遭難しかけるので、地図とコンパスは欠かせません。でも、うまくいけばクリアできる。危機を回避するための改善策を考えるのも、自分に合っていたのだと思います。
就職してからも「多摩オリエンテーリングクラブ」に所属し、毎週末のように山々を巡っていました。そんなときに、「第一回 日本山岳耐久レース」が開催されると知ったのです。1993年のことでした。一つの山ではなく、峰々を越えていくレースは当時日本初。この大会で優勝したことが、大きな転機となりました。
スポーツ紙に掲載された私の記事を見た、とあるイベントプロデューサーから「『レイド・ゴロワーズ』というアドベンチャーレースにチャレンジする間寛平さんのチームに加わってほしい」と声をかけられたのです。私は自他ともに認めるほど自己主張が強く、協調性がない人間だったので、チーム競技ができるのか不安でした。
でも、それよりも好奇心が勝り、挑戦してみることにしました。そして、1994年、見事に日本人初の完走を達成。これが、アドベンチャーレースとの出会いです。
―その後、アドベンチャーレースを人生の軸に置いたのはなぜですか。
アドベンチャーレースでは、GPSや携帯電話、パソコンなどの使用は禁止されています。地図とコンパスを使って、自分たちで現在地を把握し続けるため、ナビゲーションの役割が欠かせません。私が加わった間寛平さんのチームでのナビゲーションは私だったのですが、やはり協調性のない自分はチームメンバーを振り回しっぱなしで、誰かを思いやる気持ちがありませんでした。
間寛平さんは弟子にも怒らないことで有名で、とても温厚な方なのですが、そんな方がレース3日目にして「俺にいちいち命令するな!」と、私を怒鳴りつけたのです。また、女性メンバーが「もうやめて!」と泣き叫んだこともありました。確かにチームは完走できましたが、チームワークとしては最悪だったんです。
私は、感情を排除して何でも論理的に進めようとするところがあるため、常々「人と接する仕事は向いていない」と自覚していました。だからこそ研究職を選んだわけですが、しかしこの出来事をきっかけに「苦手なことやできないことから逃げ続ける人生でいいのか」と自問自答しました。
自分の弱い部分を認めなければ、人としての成長はない。アドベンチャーレースこそ、自分に足りていないものを学べるのではないか。そう考え、大会の翌年には会社を辞め、アドベンチャーレースに人生を賭けようと決めました。1995年、28歳のときでした。
―田中さんが感じる、アドベンチャーレースの魅力は何ですか。
アドベンチャーレースは、一度スタートしたらゴールまでタイムが止まることはありません。睡眠時間すら競技時間に含まれます。いつ、どこで、どのくらい寝るのかも戦略のひとつになります。
また、危険生物の脅威にさらされたり、天候が悪くなったりと、トラブルもたくさん。だからこそ、チームワークが問われるのです。極限状態の中で、課題解決をしながら全員でゴールを目指すためには、体力だけではなく人間性が重要になります。
それまでの私は、正論で相手をねじ伏せてきました。しかし、この競技に出会ってから、人間には謙虚さや素直さも大切だと気づきました。自分の弱さを受け入れることは、強い人間でなければできないとも思います。まさに、アドベンチャーレースは自分を成長させるためのスポーツであり、そこが魅力です。
正解はいつも自分の中にある
―高専での経験が生きていると感じることはありますか。
高専では、論理的に考え、仮説を立てて実験し、結果をレポートにまとめる経験を何度も繰り返しました。計画を立てても、期待通りの結果が出ないときには何度も考察をし、また挑戦。こうした課題解決のステップは、卒業した今でも体が覚えています。
「もうダメだ」と思っても「あきらめるな」と何度も考え、目の前の事象に向き合う。真理を追求する力を養えたからこそ、競技中にトラブルが起きても冷静になれるのだろうと思っています。ちょっとやそっとのことではへこたれない忍耐力や精神力も、学生時代に鍛えられたのではないでしょうか。
―今後の目標を教えてください。
目下の目標は、アドベンチャーレースの海外の世界選手権でチーム優勝をすることです。しかし、それは容易なことではありません。全員が相当な覚悟をもって挑まなければ到達できない目標ですから、そのためのチームづくりに力を入れていきたいと思っています。
また、私は現在56歳。自分がいつ引退してもチームが成り立つよう、下の世代を育てていくことも今後の課題のひとつだと感じています。
―高専生にメッセージをお願いします。
「高専時代に戻ったらやりたいこと」と問われても、私は出てきません。なぜなら、それほど「やりきった!」と言える学生生活を送った自信があるからです。やりたいと思ったことには何でも全力で取り組んできました。例えば「他高専の化学科との関わりを持とう」と思い、勝手に機関紙をつくって送りつけたこともあります(笑)
アドベンチャーレースの世界では「このルートで間違っていないだろうか」と迷いが生じたら、大きな遅れにつながります。しかし、強いチームを見ていると、自分たちが決断したことを正解だと信じる力、そして、その決断が正解になるように行動する力が強いと感じます。
そう、正解は常に自分次第なのです。もちろん、それでも失敗することもときにはあるでしょう。しかし、それすらも次に決断するときの判断材料にしたら良いのです。学生時代はときに思い悩み、立ち止まることもあるかもしれませんが、中途半端に行動せず、ぜひ何でもやりきってください。
田中 正人氏
Masato Tanaka
- プロアドベンチャーレーサー
イーストウインド・プロダクション 代表
1988年3月 東京工業高等専門学校 工業化学科 卒業
1988年4月 大内新興化学工業株式会社 中央研究所 入社
1996年よりプロアドベンチャーレーサーとして活動
東京工業高等専門学校の記事
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