地元、徳山高専の1期生として卒業され、現在は福井高専の校長を務められている田村 隆弘先生。コンクリートの研究を続ける中、多方面の関係者を集めて発足した研究会は、学会や国土交通省を通じて全国に影響を与えています。コンクリートの長寿命化が日本に必要な理由や高専の教育などについて伺いました。
高専を卒業後、母校で文部技官、助手をしながら博士号を取得。そして校長へ
―校長先生は徳山高専の1期生でいらっしゃいます。まずは高専に進学された理由から教えてください。
物心ついた頃からものづくりが好きで、よく木工細工をしたり、プラモデルを組み立てたりしていました。当時は近所に新築の家ができると棟上げをしていて、餅拾いに行くうちに家づくりに憧れるようになり、中学生の頃には大工になろうと思っていました。
進路としては工業高校の建築科を考えていましたが、ちょうど徳山高専ができるタイミングだったんです。それまで単科が主流だったのに対して徳山高専には複合学科(土木建築工学科)があり、さらに当時は授業料がとても安価だったため(笑)、高専を志望。倍率30~40倍の競争をなんとかパスして入学できました。
―高専時代はどのように過ごされましたか?
小学生からずっと野球をしていたので、高専でも野球に熱中する日々でした。1期生なのでまずは野球部の創設に奔走。授業中は机の下でボール縫いの内職をしていたほどの野球少年でしたね(笑)。
高校野球の大会に出場するには高校野球連盟への登録が必要だったので、自ら高校野球連盟に加盟の相談に行ったのですが、結果、登録は次年度のチームからとなってしまい、甲子園の夢はそこで終わってしまいました。学校の先生からは、勝手なことをしたと言われながらも、そこまでやりたいのならと、以降、学生監督に就任させていただき、卒業までを過ごしました。
学業の方はというと、1期生はとても頭のよい人たちが集まっていたので、ついていくのがやっと(笑)。ただ構造力学の授業では難しい問題を解いて褒められたこともあり、当時、最も厳しかった教授の構造の研究室を選びました。また入学前は大工を志していましたが、次第に橋やダムなど地図に残る仕事をしたいと思うようになっていました。
―高専で働くきっかけと、助教授になるまでの経緯を教えてください。
実は、地元企業への就職がほぼ決まっていたのですが、「学校に残れ」と声をかけていただいたんです。野球監督を続けたい気持ちと教育への興味から、文部技官として着任。技術職員として働き始めました。
そして5年経った頃、他の先生方が私を助手にしてはどうかと校長先生に話してくれ、助手に配置換えに。ただ最終学歴が高専卒のため、校長先生からは「博士を取らない限り一生助手ですよ」と言われ、学生時代にお世話になった研究室の教授にも「相当の努力が必要だぞ」「野球に精を出すのはいいが論文は毎年ドイツ語か英語で書け」などと叱咤を受けながら10年間、野球(笑)と研究に明け暮れました。
ちょうどその頃、研究室の教授から「新潟にある長岡技術科学大学の先生に研究テーマをもらってこい」と言われ、10年間の論文を手土産に挨拶に行ったんです。すると2ヵ月後に大学の先生から手紙が届き、「10年一貫したテーマで論文を書いているのでこれらを上手く纏める事が出来れば半年後に博士号を取れると思う」とのこと。
それから半年は、2日に1回4時間睡眠のようなペースで博士論文の作成に取り組み、月に1度夜行列車で徳山から新潟に通いました。こうしてなんとか半年で博士号を取得させて頂きました。
真っ先に研究室の教授に博士の学位記を持って報告に行くと、校長室に連れて行ってくれて。校長先生に「これで助教授になれますね」と言われたとき、教授の目から涙がポロっとこぼれて。
これには私も胸が熱くなる思いでした。「これやっとけよ!」と1週間かかるくらいの仕事を夕方に言われて、翌朝に「できたか?」と聞かれるような厳しい先生だっただけに、本当に嬉しかったですね。
―長年の努力が実を結ばれたのですね。その後のご経歴について教えてください。
私は高専で5年間学んだ後、43年間一貫して高専で働いていますが、その中で出向や併任など貴重な経験をさせてもらいました。
1つは、長岡技術科学大学への2年間の出向。これは高専間交流の先駆けとなるような取り組みで、大学の学校運営や研究会のつくり方などを学びました。高専教員は、ある高専に就職したら他校での勤務はほぼなかったため、この時の経験は私の貴重な財産になっています。
2つ目は、副校長、教務主事、寮務主事といった管理職の経験です。2015年に、高専機構の新たな取り組みとして、徳山高専と大島商船高専の2校を一人の校長が併任することになり、各校に副校長をおくことになりました。その結果、徳山高専では、当時、教務主事をしていた私が副校長を担当することになり、実質的な学校運営に関わることになりました。
3つ目は、高専機構本部での勤務。徳山高専との併任でしたが、初年度は研究・産学連携室の室長として、全国高専の研究力向上を目指して産学連携を推進しました。翌年は改組のため、研究推進課の研究総括参事として、4000人以上いる高専教員のスケールメリットを活かして研究ができるような企画(高専研究ネットワーク)の構築や科研費獲得支援の仕組み、そして、KRA(URAの高専版)の設置などを行いました。ここでは、高専という教育組織や文部科学省、財務省など国との関係を学びました。
その後、2019年度からは福井高専の校長に着任しています。ただ、教員になってからも約30年間高校野球の監督として甲子園をめざしたことは、改めて組織的な活動を行う上で大切な多くのことを学ばせて頂いたと感謝しています。また、母校に残ったことから同窓会長を任され、永くこれに関わったことも、貴重な経験になりました。
日本の社会課題解決にも繋がる、コンクリートの長寿命化
―これまでに、取り組まれていた研究について教えてください。
徳山高専では、主にコンクリート構造を研究していました。最初の頃は、コンクリート部材の曲げ・せん断などコンクリート部材の破壊メカニズムについて、最近では、新設コンクリート構造物のひび割れ問題、品質確保についての研究を行っています。
―研究室以外に、「コンクリートよろず研究会」も創設されているんですね?
はい、これはコンクリートに関する情報提供やディスカッションの場として、2002年9月に立ち上げたものです。きっかけは長岡技術科学大学に出向中、学会の研究グループなど研究を推進する活動に多く触れたことでした。徳山高専に帰って来て、地方に合った形で何か研究活動ができないかと考えた結果、コンクリートについて一緒に楽しく勉強していく人を見つけるスタイルがよいのではと考えたのです。
この頃、技術士(建設部門)の資格が取れたのも幸いでしたが、実際に、生コン工場で働いている人・砕石工場の人・セメントメーカーの人・建設技術者・建設コンサルタントなど多様な関係者が集まってくれました。様々な立場の人がいるからこそ、実際の現場の問題について、責任の擦り付け合いにならずに、きちんと議論できたと思います。
研究会をスタートするにあたり決めたのは2つ。「期間を決めてやろう(2ヵ月に1度集まり、2年経ったら成果を発表)」と「単に勉強したいから参加させて頂きますではなく、現場の問題をさらけ出して課題解決する場にしよう」ということです。
勉強会のテーマは、「ひび割れ」で満場一致。これがすごく需要があり、最初15名程でスタートしたのが2年後の発表会で会員は70名、学校で行った講習会では最大収容人数の150人を超える聴衆が集まり、会場に入りきらなくてお断りしたほどでした。
その後、コンクリート組合が講習会を企画してくれましたが、その際も500人収容の会場に立ち見が出ました。そして、実際に山口県のコンクリート構造物の品質がみるみるよくなっていったため、この活動が学会の研究会にまで発展し、委員長を拝任。学会から表彰も受けるといった幸せなめぐりあわせでした。
また東日本大震災後の復興の際は、ひび割れが出ないようにいいものをつくろうと国土交通省に訴えました。コンクリート構造物にも寿命があり、コンクリートの中に入れる鉄筋がサビるため寿命は50~100年ほどですが、東北のような過酷な環境では、下手すると10~15年経たないうちにコンクリートがボロボロになってしまいます。
震災直後はスピード重視で再建する方針でしたが、次第にいいものをつくることが大事だと共感を得られました。この復興時の方針を現在は国土交通省が全国展開しようとしています。
「ものづくりのスペシャリスト」を育成するからこその教育方針
―教育について大切にされていることを教えてください。
「命と人権を大切にする人を育てる」をモットーにしています。なぜなら、ものづくりを主体とする高専においてエンジニアを育てることは、強力な武器をつくる力を持たせること。得た知識・技術を何に使うかが大変重要です。
今はインターネットによって、いくらでも知識のインプットができます。では学校は何を教えるのかというと、命の大切さや人権など根本的な部分を教える場所だと思うのです。これらは、仲間と価値観をぶつけ合ったり何かをやり遂げる中でこそ学べます。根本的な部分を理解できていないといじめなどの問題が起きますし、それが大人の世界では国同士のいじめや戦争に発展していくのです。
また、起きた問題に対処するだけでなく、最も大切なのは問題が起きないようにすること。平和なときにこそ、危機感を持って言い続けないといけないと、いつも考えています。
田村 隆弘氏
Takahiro Tamura
- 福井工業高等専門学校 校長
1979年3月 徳山工業高等専門学校 土木建築工学科 卒業(1期生)
1979年4月 同校 文部技官(学生課)
1984年4月 同校 土木建築工学科 助手
1995年3月 長岡技術科学大学 博士(工学)
1995年4月 徳山工業高等専門学校 土木建築工学科 助教授
1998年4月 長岡技術科学大学 技術開発センター 助教授
2003年5月 技術士(建設部門)
2005年12月 長岡技術科学大学大学院 講師(2007年3月まで併任)
2007年4月 徳山工業高等専門学校 土木建築工学科 教授
2015年4月 同校 副校長
2016年4月 高専機構本部 研究・産学連携室 教授(室長/徳山高専 土木建築工学科 教授併任)
2017年4月 高専機構本部 研究推進課 教授(研究総括参事/徳山高専 土木建築工学科 教授併任)
2019年4月 福井工業高等専門学校 校長
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