高専教員技術職員

学生や教員を支える、縁の下の力持ち。挑戦の連続から生まれるキャリアアップとは

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教員の授業や実習をサポートする技術職員として、母校である大島商船高等専門学校 情報工学科に入職された舛井美佳子先生。高専への進学を決めた経緯や、母校で働く中で感じている思いについて伺いました。

夢を見つけるために高専へ

―高専に進学を決めたきっかけを教えてください。

幼い頃から憧れの職業やかなえたい夢が特になく、中学生になっても将来の進路は漠然としていました。ちょうどその頃、パソコンが導入され、WordやExcelなど簡単な動作を学んだんですが、授業の中で先生から、「今後、どんな職種にも使われるようになる技術」と聞いたんです。今すぐにやりたいことがないのなら、このスキルを身につけておきたいと考えるようになりました。

高専の存在を知ったのは、それからすぐの中学3年生の時です。学校でもらったパンフレットを見て、プログラミングや製図など、今まで見たことのない科目に興味を抱きました。進路調査で高専に行きたい意思を伝えると、担任の先生には「今の成績で大丈夫か?」と心配されましたね(笑)。でも無事に合格。入学してからは、毎日片道1時間、電車と自転車を使って通学していました。

―高専での学生生活はいかがでしたか。

体育館にて、バレー部員が集まって、中央の学生が賞状を手に持ち、集合写真
高専4年次の写真(バレー部)

プログラミングの基礎からいろいろなアルゴリズム、通信や制御などさまざまな授業がありました。最も衝撃を受けたのはプログラミングの授業です。実験実習でGUIアプリケーションを作成したときには、「アプリケーションって素人でもつくれるんだ!」と感動しました。

部活動では、中学から続けていたバレーボール部に所属。練習では和気あいあいとしたチームでしたが、比較的強いメンバーがそろっていたので、高専大会にも出場していました。私のポディションはライトで、レシーブが得意でした。

高学年になるにつれて専門科目が増えると、勉強との両立が難しくなり3年生の時に退部。少し状況が落ち着いた4年生になって復帰して、結果的に卒業までバレーボールを続けることができました。

―技術職員を志したのは、いつ頃だったのでしょうか。

4年生の時です。私が就職活動をしていた時期は「就職氷河期」と呼ばれ、就職率100%と言われ学校推薦のある高専生でも、何社も就職試験を受けないと内定をもらえない状態でした。

そうした状況の中、大阪でのインターンシップや東京での研修旅行で、1週間程度、滞在したのですが、都会の環境が合わず体調不良に。地元に近いところで就職したい気持ちが強くなり、山口・広島での就職を目指しました。

地元就職に絞るとさらに求人が少なかったので、公務員を目指すようになりました。この頃には「最悪の場合、情報系の仕事が見つからなくても仕方がない」と割り切っていたので、事務の試験を受けていました。

そんな中、就職担当の先生から教えてもらったのが、中国・四国地区国立大学法人等(技術職員)の採用試験でした。詳細を見ると、たまたま母校の技術職員も募集していたので、ダメ元で受験したんです。一次は一般教養の筆記試験、二次は各校での面接試験でした。

無事に内定をもらうことになるのですが、まさか自分が母校で働くとは思ってもみませんでしたね。「地元就職」「情報系の仕事」と、希望の場所にたどり着くことができたのは、とても幸運だったと思います。

学生が自分で答えにたどり着けるように導く

―技術職員になられてからについて、お聞かせください。

真っ青に晴れた空、木々の緑に囲まれて、低層の校舎がたたずむ
大島商船高専_正門

学生の頃には気づかなかった先生たちの仕事や思いに触れる毎日に、とにかく驚きの連続でした。最初にひとりで任された仕事は、たしか学内の先生が所有するパソコンのトラブルシューティングです。「メールがうまく受信できなくなった」と聞き駆けつけたのですが、結局、私1人では解決できず、持ち帰った記憶があります(笑)。

先生の実験実習の補助について学生たちのフォローに回っていると、予期せぬ角度からさまざまな質問を受けました。自分の中でなんとなく理解していたことを、論理的に詳しく、相手が納得いくように説明するのに最初は苦労しましたね。今までの教科書を読み返したり、調べてみたりして、自分なりに勉強をし直しました。

―学生に教える際に、心がけていることはありますか。

聞かれたことにただ答えるだけなく、勉強している内容が何に使われるのかを調べて伝えるようにしています。やみくもに知識を溜め込むよりも、「何につながって」「どことリンクしてくるのか」がわかって身近に感じられたら、学生自身の学びの意欲が自然に高まるのではないか、という仕掛けのひとつです。

また、私自身の学生時代を思い返すと、何がわからないのかさえもうまく説明できないタイプでした。どこでつまずいているのか、一つひとつ根気よく話を聞いて、直接的な答えではなく、それを乗り越えるための方法をアドバイスするように心がけています。

自分で勉強をし直した過程でも気づいたのですが、案外、考えずに答えにたどり着いたものって忘れているんですよね。逆に苦労した問題は「ここでつまずいた」「こうやって失敗した」と覚えています。だから、指導する立場としての役割は、学生が自分で答えにたどり着くように導くことが大切なんだと初めて気付かされました。

キャリアアップへの気持ちが高まった出産経験

―勤続されてもうすぐ10年。心境に変化はありますか。

ウォールアートで、いかにも飛び出してきそうなキリンのあたまの下で、お子さんと同じポーズを取る舛井先生
子どもとの写真

数年前に結婚・妊娠・出産を経験し、ライフステージが変化したことは大きなターニングポイントでした。入職した当初は、学生に対して後輩と接するような気持ちでしたし、先生とも学生の関係の延長にあるような気持ちが大きかったのですが、キャリアを重ねるとともに、「誰かのために仕事をしている」という実感が、自分のやりがいにつながっていることに気づかされたように思います。

私がちょうど育休中の2019年は、コロナ禍によって学内のあらゆるネットワークやシステムの構築が進み、技術職員としてさらなる知識や技術のアップが求められているタイミングでした。

これからさらに仕事に力を入れていこうとしていたところでの育休だったので、余計に仕事への意欲が高まりました。復職した今も、限られた時間の中で「もうちょっと私にできることはないかな」という気持ちが加速しています。出産が仕事の原動力につながるいいスパイスになってくれました。

休日は、2歳の息子と一緒に、朝から夜まで遊んでいます。人見知りする内弁慶タイプなので、人が多い場所では遊べなくて、朝8時半から公園に行って遊ぶんです。人が多い時間帯になったら家に帰っておうちで遊び、一緒にお昼寝。何気ない毎日が癒しです。

―今後の展望についてお聞かせください。

昔の私にはなかった「やりたいこと」が、今、増えてきているんですよ。一部しかサポートできていない学校のネットワークやサーバ管理などの仕事もそうですが、子育ても頑張っていきたいと思っています。本当になんで体が2つないんだろうと思うくらい(笑)。とにかくいろんなことに挑戦して仕事の幅を広げ、学生に教えられることも増やしていきたいです。

舛井 美佳子
Mikako Masui

  • 大島商船高等専門学校 情報工学科 技術支援センター 第三技術室 技術職員

舛井 美佳子氏の写真

2011年3月 大島商船高等専門学校 情報工学科 卒業
2011年4月 大島商船高等専門学校 技術支援センター 第三技術室 技術職として勤務

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