富山高専を卒業後、会社勤めを経験し、税理士として開業された三上拓真さん。高専時代は電気工学を学んだ三上さんが、一見、縁のない税理士へと転身した経緯とはどのようなものだったのでしょうか。高専時代の思い出や、開業に至った経緯、現在のお仕事のやりがいについて伺いました。
部活に打ち込んだ高専時代、リーダーの資質を知った瞬間
―三上さんが富山高専に進学されたきっかけを教えてください。
5歳上と7歳上のいとこが高専で非常に楽しそうな生活を送っているのを見ていたんです。中学2年ぐらいまでは勉強をしなくてもテストで上位は取れていて、特に数学は楽しいと思えていました。いとこから高専の勉強について「数学嫌いじゃなければ全然やっていけるよ」と教えてもらいました。
あとは「バイトもできるよ」という誘惑を聞いて、不純な動機で進学しましたね(笑) 実は入学式のときから髪の毛を染めていたのは、たしか2人しかいなかったんですが、そのうちの1人が私でした。
実は推薦面接の際、面接官たるO先生から「君は高専に入ってちゃんと勉強をしたいと思っているのかね?」と言われたこともありました。というのも、上のいとこは高専で学んだ分野を生かした道に進んだのですが、下のいとこは音楽の道に進みまして、私の面接官はその音楽の道に進んだいとこの指導教官だったんです。今考えると、私も高専卒の道を外れた一人ですね。
―高専に進学されていかがでしたか。
高専に進学して良かったと思えたのは最近になってからかもしれません。高専在学中は道を誤ってしまったのではないかと思い、電気工学科にいながら電気工学に関する授業を面白いと思えず過ごしていました。しかし、その中でも情報処理科目(プログラミング)は楽しんで学ぶことができていましたね。
電気工学自体にはあまり興味がなかったものの、卒業しなければいけないという気持ちは持っていました。自暴自棄になり、高専をやめようと思ったこともありましたが、何とか踏みとどまるきっかけをつくってくれたのが部活でした。部活で得られた仲間や環境を、自分から手放してはいけないと思ったのです。それが続けようと思えた一番の理由ですね。
最近はデジタル化の波が押し寄せている中で、私がいる税理士業界はデジタル化が遅れていると言われています。そんな環境で「プログラミングの知識があること」や「理系であること」はとても役立つと実感しています。今となっては、高専で学んでいて本当によかったと思えますね。
―高専時代はどのような部活に所属していたんですか。
高専ではハンドボール部に入部しました。北陸地方だと、高専のハンドボール部は当時富山、石川、福井の三高専しかなく、そこで1位になると全国高専大会に出られたんです。
私は中学校からハンドボールをしていたので、クラスで同じくハンドボールをしていた子と一緒に入部。すぐにレギュラーになりましたが、大会に行くと、それはもうボコボコにやられました(笑) そこから、「どうしても勝ちたい!」と後輩を必死に勧誘して部員を増やし、少しずつ波が立つようになってきたのです。
ハンドボール部はそのときの4年生がキャプテンになるのが通例なのですが、3年生、4年生の先輩がいる中で、当時2年生だった私が「俺にやらせろ」と言って、キャプテンにしてもらいました。当時は本当に生意気でしたね。
そこから「俺のやり方についてくる人だけ残ってください。俺は全国行くチームをつくるんで」と言い、自分にも厳しく、他人にも厳しくしました。ワガママなキャプテンでしたが、チームメイトに恵まれたおかげもあり、本当に次の年に全国高専大会に出場することができました。先輩たちも「お前がやってくれて良かった、ありがとう」と言ってくださいました。
とはいえ順風満帆ではありませんでした。キャプテンになった半年後ぐらいに、後輩たちから退部届を突きつけられました。私の独善的で周りを顧みない指導にチームの限界が来たのです。一つ下の後輩ほぼ全員から同じ日に退部届を突きつけられたときに、「申し訳ないです。本当に俺変わるから、残ってください」と、初めて人に頭を下げました。結果的に主力メンバーが戻ってきてくれて、その年に全国大会に出場できました。今でも仲間には感謝の気持ちでいっぱいです。
そして高専時代最後の年、全国大会で爪痕を残すようになって、周りからも「来年、富山高専の黄金期が来るぞ」と言われていた頃のことでした。私たちも社会人や大学生相手にたくさんの練習試合を重ねて、「北陸地区大会なんてどうでもいいだろう」と調子に乗っていたら、最後の年に石川高専に1点差で負け、全国大会に行けなかったんです。
これは苦い思い出で、後輩たちからは「100回やって1回負けると思うけど、その1回があのときだった」と言ってくれました。でも、本当は100回やって100回勝てるぐらい強くなきゃいけなかったんですよね。
卒業後も、チームメンバーとは誰かが結婚するたびに結婚式で再会できるようになり、OBチームと現役チームの交流戦である「チャレンジカップ」にも数年間参加していました。一生モノの仲間ができたのは、高専の5年間という長い期間を過ごしたからではないかなと感じています。
今は税理士として開業し、社員も増えたので、当時の部活を通して人を育てた経験や、全員で協力することの大切さを生かしています。若いときに失敗してなかったら、大人になってもっと大きい失敗をしていたかもしれません。そういう意味では、高専の「失敗ができる環境」はすごく大きいと思います。意思表示がしっかりできるメンバーが集まっていたのは、ありがたかったですね。
―卒業研究はどのようなことをされたのですか。
PET検査に用いられる放射性測定器の検出精度について、プログラミングを用いてシミュレーションをしました。PET検査はがんの肺細胞を見つけるための検査で、ブドウ糖と放射性物質が含まれているものを飲み込むと、がん細胞にブドウ糖が集まり、そこから出る放射性物質を測定するものです。これにより場所が特定できるので、検出器を置いたらどのくらい精度が上がるか、どんなサイズだったら正確に測定できるかを研究しました。
指導教官の高田英治先生は私のことを応援してくださり、進学先まで考えていただきましたが、当時は研究が苦痛で仕方なくて……(笑) 結局進学は断ったんです。税理士になってから学校に挨拶しに行って近況を話すとすごく喜んでくださって、学生時代の行いが申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。
卒論ではやり抜く大切さを学びました。税理士試験も大変なのですが、やりたい勉強だから頑張れましたね。やらなければいけないことをきちんとやり抜く力が身についたと思います。
「経営者になりたい」から目指した税理士資格
―卒業後はどのように過ごされたのですか。
すぐに就職しました。進学を断り、就職先決めないと、と思っていた5年生の1月、焼肉屋でバイトをしていたのですが、そこにお客様としてとある社長が来られていて、接客をしていたところ気に入ってもらい、名刺を渡されて「うちに来ないか」と誘われたんです。
「これは運命だ」と思ってその方の会社に入社したのですが、労働環境があまりよくなくて……。1ヶ月で300時間勤務を21歳で経験しました。世間を知らなかったので「こんなもんだろう」と思っていましたが、ある日何かがプツンと切れた気がして、今後のことを何も考えずに退職しました。
その後、有給休暇消化中、そういえば昔から社長(経営者)になりたいんだった、と思い立ち、何か資格を取ろうとパンフレットを読み漁りました。そうすると「いずれにしても簿記が必要になる」と気づき、それを学ぶことに。これまで勉強が嫌いだった自分にとっては信じられないぐらい簿記の勉強にハマり、約2ヶ月で日商簿記2級を取得することができました。
また、経営者になれるなら職業は問わなかったため、地域の中小地域企業を支える税理士が面白そうだと感じました。「税理士試験は、1年で1科目も合格しなかったら辞める、3年以内に3科目合格していなかったら辞める」と自分にノルマを課して臨むことにし、結果として3年で3科目合格後、資格取得までは約7年かかりましたが、税理士資格を取得することができました。
また、試験勉強をしながら税理士事務所に勤務していた時は、「この仕事を選んで良かった」と思えるぐらい、本当に楽しかったです。普段なかなか接する機会がない一企業の社長と対等にお話ができますから、「もっとアドバイスができるようになりたい」と、勉強にも熱が入りました。
時代のニーズに合わせたサービスを展開
―税理士としての開業後のお話をお聞かせください。
2017年に三上拓真税理士事務所を開業しました。私の名刺にも記載している「最も身近な相談相手に」というフレーズは、私が目指す姿であり、開業時に最も意識したことです。「あなたがいないと駄目だ」と思ってもらえるようなパートナーになりたい、という思いからスタートしました。
今では社員も増え、みんなで組織をつくり上げていく形にしたいと考えたため、全員が共有できる経営理念を設けました。誰かの犠牲のうえに成り立つ幸せではなく、みんなで何かを成し遂げてこそ「最幸」だと考え、現在の経営理念を「関与するみなさまの最幸(さいこう)を追求します」としています。
「関与するみなさま」というのは、お金をいただく関与先様だけでなく、職員や提携企業、家族など、多くの方々を含めた表現です。そのため、関与先様へのサービスでは、黒字化支援や業務効率化支援などを重視しながら取り組んでいます。
一般的には、税理士の業務といえば「確定申告書や帳簿の作成」「税務調査への対応」というイメージが強く、「代わりにやってくれる人」という認識であることが多いようです。
しかし今は、経営者様の「いろいろなことを相談したい」というニーズに合わせて、毎月の訪問や売上予測、予算と実績の対比なども必ず行っています。決算の着地予測や納税額の予測をすべてのお客様へ提供することが、実は大きな差別化につながっているんです。また生命保険や融資などのアドバイスを行う“経営のサポーター”こそ、時代に求められる税理士の役割だと思います。
組織全体でお客様を幸せにするために動けている今のフェーズは、とても楽しいですね。これをさらに拡大し、より多くの人を幸せにできる組織であり続けたいと思っています。
―最後に、高専生へのメッセージをお願いします。
私が大事にしている言葉に「行動した後悔よりも、行動しなかった後悔の方が大きい」というものがあります。わかりやすく言うならば、好きな人がいて、1%でも付き合ってもらえる可能性があるなら、告白しろということですね(笑) 行動して駄目だったら後悔する部分もあるかもしれませんが、「あのときやっておけばよかった」と思うよりは何百倍もマシだと思うんです。
そういう意味では、3年生のときに高専を辞めなくてよかったと今になって思います。やりきった自信は今の結果に繋がっていますね。あとは「他人と過去は変えられない。自分と未来は変えられる」という言葉も好きです。退部届が突きつけられたときに自分を変えることができたから、一生モノの仲間ができました。
一生懸命やったこと、全力で取り組んだこと、楽しくなくても頑張ったことは身になっています。今楽しいか楽しくないかではなく、今やるべきことを全力でやる、今できることにどんどんチャレンジする——こういったことが習慣になれば、将来どこでも生きていけますし、どこでも活躍できる人材になると思います。皆様のことを応援しています!
三上 拓真氏
Takuma Mikami
- 三上拓真税理士事務所 所長
2005年 富山工業高等専門学校(現:富山高等専門学校) 電気工学科 卒業
2005年~2008年 人材派遣会社(現在は倒産)
2009年~2014年 杉井勇治税理士事務所
2014年~2017年 税理士法人 総務部
2017年8月より現職
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