都立工業高専(現:都立産技高専)の卒業生で、2025年9月に月刊高専を運営するメディア総研株式会社の営業部 部長として入社した村山諭。シンドラーや日本オーチス・エレベータで保守、機械設計、マネジメントなどを経験してきた村山が、なぜメディア総研で働くことになったのか。これまでのキャリアについて話を聞いてみました。
機械設計の仕事を見て、エンジニアへの夢を抱く
―都立工業高専に入学された経緯を教えてください。
中学生の頃、家族ぐるみで交流のあった機械設計の仕事をされている方がいらっしゃいました。ご自身の家で仕事をされていた方で、ドラフターで図面を引いている姿を見て「かっこいいな」と、その姿に興味を持っていました。
そして、設計業務に興味を持った私は、どういう段階を踏めばその職業に就けるのだろうと、その方に出身校を尋ねたんです。それが都立工業高専でした。5年間の課程で、4年生から先行ゼミに入り5年生から正式に研究室に所属をして、機械工学という幅広い分野を学ぶ中でいろいろな将来を考えることができる環境があると教えてもらいました。早い段階で実務的な成長ができることも聞きました。
また、高専祭に行ってみると、一般教科で倫理を担当されていた先生とお話しする機会があり、高専についてのさまざまなことを教えていただきました。技能者ではなく技術者になりたかった私は、その先生のお話を聞いて熱量が上がり、「行ってみたい」と思うように。ちょうど学校長推薦が始まったタイミングでもありまして、校長先生に推薦していただき、運よく合格することができました。
―技能者と技術者の違いは何でしょうか。
技能者(スキルワーカー)は設計図やマニュアルなどに基づいて技能を用いて現場作業に携わる役割ですが、技術者(エンジニア)は自ら設計して解析し、計画管理を行い完成させる役割と認識しています。私はエンジニアとして「考える・設計する」仕事を中心にして自分で責任を背負ってものづくりをするプロセスを楽しみたいと思っていました。
―高専での学生生活は、入学前に思い描いていたものと同じでしたか。
ズレていましたね、いい意味で。高専では1年生前期から専門色の強い数学や技術科目が始まりました。細かい内容は30年以上前なので正確ではないのですが、高校より明らかに進み方が速かった記憶があります。中学の同級生と話す中で、「高専は高校とはまったく別のカリキュラムなんだ」と実感しました。また、入学前はもっとスタイリッシュに学ぶのかなと漠然と思っていたのですが、実際は1年生の頃から油まみれになって実習したり、2週間に1度のペースでレポートを提出したりと、かなり厳しい環境でした。

ただ、その厳しさがあったからこそ、思っていた以上に力が身につき、「本当に技術者としてキャリアを歩めるんだ」という実感や自信が生まれました。実際、その後の仕事でも高専で培った知識・技術は大いに役立ちました。当時は大変だと感じていましたが、今振り返ると本当に良い経験でしたね。
―卒業研究ではどのようなことをしましたか。
いわゆる制振(ダンピング)に関する研究をしていました。当時の私たちの研究室は振動工学を扱っており、一般的にダンパーは1次元や2次元の振動を対象にすることが多いのですが、「3次元的に自由に動く質量体の場合、制振特性はどう変わるのか」というテーマで取り組んでいました。
具体的には、立方体(キューブ)の容器の内部を球形にくり抜き、その中に球体を入れ、周囲に粘度の異なるオイルを満たした「3次元ダンパー(当時の呼び方)」を試作し、振動がどのように減衰するかを実験的に確かめました。固有振動数や周波数応答といった振動工学の基礎的な考え方をもとに、球体の動きと減衰特性を観察する研究です。細かな数値などは30年以上前で記憶があいまいなのですが、考え方としてはこのような内容でした。
装置の製作では、卒業生が経営する蒲田の町工場にお願いし、コストを抑えながら実験装置を形にすることができました。完成した研究は高専の学会でも発表し、非常に良い経験になりましたね。

―学生生活で印象に残っていることは何ですか。
特に印象に残っているのは、バスケットボール部での活動です。4年生の時には高専の全国大会にレギュラーとして出場しました。2回戦で、とんでもなく上手な選手がいるチームに当たり、こてんぱんにやられてしまったのですが(笑)、仲間と本気で取り組んだあの時間は今でも鮮明に覚えています。
当時の部活動の仲間とのつながりは今も続いていて、同期・先輩・後輩、さらには現役生も交えたOB会を毎年開催しています。こうした縦と横の結びつきは、高専らしい文化であり、私にとって大切なコミュニティです。

また、キャンパスが品川にあったことで、交通の便がよく、幅広い人たちと自然とつながる環境がありました。部活動に限らず、自校や他校の友人たちとの日々のコミュニケーションは、学生生活の中でも大きな財産になっています。
技術者からマネジメントの立場へ
―シンドラーに入社した経緯を教えてください。
入社したきっかけは、仲良くしていた熱力学の先生からの紹介でした。先生がいくつか候補を挙げてくださった中にシンドラーがあり、話を聞くうちに興味を持ちました。
当時、エレベータには油圧式の機種も多く、自分が高専で学んだ制振や軸圧といった振動・機械の知識が生きるのではないかと感じました。また、装置の仕組みから設計まで幅広く関われる可能性があり、機械設計に携われるのではという期待もありました。技術者として現場にも近い形で働ける、その点が入社を決めた大きな理由です。
―シンドラーでは、どのようなキャリアを歩まれたのですか。
シンドラーに入社してすぐ、まずは工場で3カ月、現場で6カ月、計9カ月の研修を受けました。製造から据付、保守まで幅広い業務に触れる中で、エレベータが「つくられ、設置され、実際に多くの方々に使われるまでの一連の流れ」を実際に目で見たいという気持ちが強くなり、入社前に抱いていた“純粋な設計業務”への興味は次第に薄れていきました。
研修後は、東京の保守・メンテナンス部門に配属となり、毎月およそ100台のエレベータの点検を一人で担当していました。この部門には約3年間在籍し、数多くの機器に触れながら、実際の現場でしか得られない経験を積むことができました。お客様先で設備を直接扱う日々は、まさに「現場を知ることの大切さ」を強く実感する時間でした。

その後は設計部門へ異動し、エレベータのドア開閉機構やケージ(かご)など、日本の法規に合わせた機械設計を担当しました。現場経験を経て設計に携わることで、装置の見え方や考え方もより実践的になったと感じます。
そして2002年頃、再び保守部門に戻ることになったのですが、その直後に組織変更があり、26歳にして保守部・第一課の課長に就任しました。「マネジメントに興味ある?」と声をかけられ、言われるまま適性テストを受けたところ、そのまま課長職へ。おそらく会社として、先にポジションを用意し、そこに若手を入れて育てる方針があったのだと思います。
保守部第一課には20名以上が所属しており、エスカレータとエレベータの2グループに分かれていました。私は、マネジメント全般、売上管理、改修工事の受注・提案管理を担う一方で、各グループにいる営業担当者のマネジメントも任されていました。技術職からスタートしたキャリアが、ここで一気にマネジメントへと広がっていきました。

―技術者からマネジメントに立場が変わったわけですね。マネジメントする際に気をつけたことは何だったのでしょうか。
マネジメントに携わるようになって間もない頃、2006年に東京都港区で発生したエレベータ事故がありました。業界全体に大きな衝撃が走り、現場は通常業務とは比較にならないほどの緊張感と忙しさに包まれました。その対応により従業員が疲弊し、退職が続くなど、組織として非常に厳しい状況に直面しました。
その中で、メンテナンスを継続するために海外からスタッフを招いたり、現場の負荷を軽減するための体制づくりを急いだりと、当時の私たちは何とかして現場を守ろうと必死でした。
こうした経験を通して強く感じたのは、「マネジメントは、ヒト→モノ→カネの順番で考えなければ成り立たない」ということです。まずは人が健全に働ける状態をつくり、その上で設備や仕組み(モノ)、そして財務(カネ)を考える。順番を間違えると組織は崩れてしまう。これは当時、身をもって学んだ大きな教訓でした。この気づきは、シンドラーでのその後のキャリアだけでなく、現在に至るまで私自身のマネジメントの軸となっています。
―その後のキャリアについて、教えてください。
エレベータ事故での対応が評価され、31歳で東京東支店の支店長を任されました。担当するエレベータ台数は大幅に増え、保守だけでなく新設工事のマネジメントも含めた広い範囲を担うことになります。
着任当初、東支店は東京4支店の中で売上順位が下位でしたが、私はエレベータの改修工事とエスカレータの新設工事を強化。継続的に案件を獲得できる体制を整え、支店の業績を安定的に伸ばしていきました。また、官公庁の保守契約においては、長期保全計画に基づく適正な保守費用の重要性を丁寧に説明し、価格見直しをご理解いただいた上で入札方式から随意契約への移行を実現しました。これらの取り組みにより、毎年少しずつではありますが売上を伸ばし、4年連続で支店売上トップを達成しました。
その後、36歳で東京支社長を任され、東・西・南・北の4つの支店に加え、営業部・工務部・検査課を束ねる立場になりました。組織全体の規模が一気に大きくなり、求められるマネジメントの視点も広がっていきました。
東京支社長として特に重視したのは、『人が辞めない組織づくり(人材のリテンション)』でした。事故以降、現場の疲弊や離職が続いていたこともあり、社員こそ最大のリソースであり財産であるという考えのもと、働きやすさや満足度を高める取り組みを進めました。
また、東京支社長の時には、社会人大学院で事業設計工学を学び直しました。現場経験に経営の知識を加えたことで、より体系的に組織づくりに取り組めるようになりました。
―その後、日本オーチス・エレベータとの統合にも関わられたのですね。
40歳のとき、2016年に日本オーチス・エレベータとの統合プロジェクトが立ち上がり、私は業務管理統括部長として参画しました。日本オーチス側の責任者の方と協力しながら、全国のシンドラーの拠点を回り、統合後の組織体制や給与などの変更点を説明するとともに、規則・制度などの全社的な統合作業を進めました。特に、経理・総務・人事といったインダイレクト部門の統合は調整が多く、非常に苦労した部分です。

統合は2018年に完了し、その後は新規事業推進本部でPMIを担当しました。統合によって生まれる効果を最大化するための重要な役割で、組織づくりの総仕上げのような仕事でした。
その後は全国の公共営業業務を統括する部門の責任者として、官公庁向けの新設・改修工事の入札業務を管理していました。入札広告の確認から価格設定、入札参加資格の管理、全国の行政情報の集約、そして各地(営業所・支店・支社)の営業担当者への指示まで、官公庁入札に関わる業務全体をマネジメントする役割でした。これが私の最後のキャリアとなりました。
変化を楽しめるために重要なマッチング
―2023年12月に村山さんは日本オーチス・エレベータを退職されています。その理由は何だったのでしょうか。
退職の理由は、祖母の介護でした。シンドラーで働いていた頃から介護は続けていましたが、2023年3月に祖母が体調を崩して入院し、介護の負担が大きくなりました。自宅で介護することを決めたものの、仕事と両立するのは難しく、限界を感じるように。上司からは休暇取得などの提案もいただきましたが、責任ある立場である以上、長期間職務に穴をあけて周囲に迷惑をかけたくありませんでした。
また、日本オーチス・エレベータは組織としてしっかり機能しており、私が退いても会社は前に進めると考えました。そこで、経営年度の区切りである2023年12月で退職する決断をしました。
―その後、メディア総研に入社したのはなぜですか。
祖母の介護を続けていましたが、2025年5月に祖母が亡くなりました。亡くなる前に交わした最後の会話で、祖母から「あんた、まだできることいっぱいあるでしょ」と言われ、その言葉がずっと心に残っていました。50歳手前の自分にも、まだ挑戦できることがあるはずだと、背中を押された気がしたんです。
その後、いくつかの中途採用の機会をいただきましたが、最終的にメディア総研を選んだのは、自分自身が高専出身であり、高専生と関わる経験も多かったことが大きいです。高専生に「未来の選択肢」を示し、可能性を広げることに貢献できるという点に強い魅力を感じ、ここでなら祖母の言葉に応えられると思いました。

―メディア総研 営業部 部長として、企業の方に向けてメッセージをお願いします。
長く採用に関わってきた経験から、企業にとってリテンション(人材の定着)は極めて重要だと考えています。特に新卒採用では、企業と学生のミスマッチが起きると、双方にとって不幸な結果になりかねません。社員が満足して働ける環境をつくれる企業こそ、顧客にも高い価値を提供できます。反対に、社員が満足していなければ、お客様を満足させることはできません。
だからこそ、採用段階での納得できるマッチングが非常に大切です。高専生は大学生と比べて、早い段階で進路を決めて就職活動を進める傾向があります。そのため、企業風土や先輩社員の雰囲気、働き方、福利厚生など、互いが率直に情報を伝え合うことで、本当に良いマッチングが実現できると感じています。
メディア総研としては、企業と高専生が「腹を割って向き合える場」をつくり、双方にとって納得感のある出会いを支援することで、より質の高いサービスを提供していきたいと考えています。
―最後に、現役の高専生に向けてメッセージをお願いします。
働く期間は長く、40年という時間があります。私自身のキャリアを振り返っても、入社前に「かっこいい」と思っていた仕事と、実際に自分が夢中になっていった仕事は必ずしも同じではありません。仕事に対する価値観は、経験とともに変わっていくものですし、その変化を見極める「自分の目」は必ず成長していきます。
だからこそ、変化にしなやかに対応できる力を身につけてほしいと思っています。変化に耐えられる力があれば、社会のスピードがどれだけ速くなっても、前に進むことができます。そして、その「変化」を楽しめるようになると、人生そのものがぐっと豊かになるはずです。
そのためにも、進路の入口である企業とのマッチングはとても大切です。自分に合った環境に出会えた時、人は大きく成長し、その後の人生が大きく変わります。私たちメディア総研のサービスが、みなさんの未来へ向けた一歩を後押しする架け橋になれれば嬉しく思います。
村山 諭氏
Satoshi Murayama
- メディア総研株式会社 営業部 部長

1998年3月 東京都立工業高等専門学校(現:東京都立産業技術高等専門学校) 機械工学科 卒業
1998年4月 シンドラーエレベータ株式会社
2018年9月 日本オーチス・エレベータ株式会社(統合による)
2023年12月 同 退職
2025年9月 メディア総研株式会社 入社、営業部 部長
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