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技術と仲間は、一生の財産になる。旭川高専第1期生が定年後も挑み続ける、ものづくりの道

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旭川高専の第1期生として入学し、機械設計の分野でキャリアを重ねてきた株式会社アールアンドイー エンジニアリング事業部 シニアディレクターの村上孝志さん。現在は、廃プラスチックのリサイクルに活用される機械の開発に携わるとともに、全国高専同窓会連合会の会長も務めています。高専での経験や技術者としての歩み、ものづくりの魅力についてお話を伺いました。

製鉄所の街・室蘭、父の背中を見て技術者の道へ

―旭川高専へ進学したきっかけを教えてください。

父が製鉄所で働く技術者だったことが大きいです。室蘭は製鉄の町で、富士製鐵(現:日本製鉄)の工場があり、近くには室蘭工業大学もありました。子どもの頃から「技術者」という仕事が身近で、父の働く姿を見て、自然と「自分もエンジニアになるんだ」と思うようになりました。

当時できたばかりの旭川高専は新聞で知り、もともと工業高校や工業大学に進みたいと思っていたので、興味を持ちました。当時の受験倍率は24倍と高く、北海道各地からさまざまな受験生が集まりました。

―第一期生として入学されましたが、当時の旭川高専はどんな雰囲気でしたか。

「生徒ではなく学生としての自覚を持ちなさい」という校長の方針が印象的で、校則もほとんどない自由な校風でした。全体として、主体性が求められる環境だったと思います。

―当時は寮生活が中心だったそうですね。

全道から学生が集まっていたので、多くが寮生活でした。32畳の部屋に10人で生活し、洗濯はたらいと洗濯板、ストーブも自動ではなく自分たちで火をつける石炭ストーブの生活です。旭川の冬はマイナス30度近くまで気温が下がることもあり、非常に厳しい環境でした。

ただ、そうした不便さがあったからこそ、自然と助け合いが生まれました。暗くなれば寝て、明るくなれば起きる。そんなシンプルな生活の中で、お互いモラルを持ち、支え合いながら過ごしていたと思います。

▲寮生のみなさんと(村上さん:左から2番目)。後ろの建物は旧日本陸軍第7師団兵舎跡で、1階が寮、2階が教室になっています

北海道各地から集まった寮生は、まさに「同じ釜の飯を食べた仲間」です。60年以上経った今でも関係は変わらず、会えばすぐに当時の関係に戻れます。多感な時期の共同生活は、人間関係の基本を学ぶ場でした。

▲32畳間で勉強している様子(村上さん:奥から2番目)

―高専の教育で良かった点はどこでしょうか。

実社会で働いていた技術者が先生として教えてくださったことです。鉄道会社やパルプ工場勤務者など、現場経験のある技術者が授業を担当し、教科書だけでなく実際の現場に近い形で学べたのが大きかったと思います。

―高専卒業後は三栄精機製作所(小樽市)に入社されています。入社のきっかけを教えてください。

何社か入社試験を受けましたがうまくいかず、最終的に先生に紹介していただいた会社に就職しました。当初は営業志望でしたが、会社からは設計か工場で働いてほしいと要望され、工場を希望したら福島工場に配属となりました。しかし、福島工場に設計者がいなかったため、私が設計の仕事に携わることになりました。

当時はパソコンもなく、設計はすべて手作業。ミスをすれば最初からやり直しです。工場部品設計からキャリアをスタートさせ、加工技術等を習得したその経験が今の仕事につながっているのは事実です。

その後は設計だけでなく技術営業も経験し、約15年間勤務しました。両親の体調不良がきっかけで退職し、室蘭にあるN・Sエンジニアリングへ転職しました。

技術者から経営へ、そして再び現場へ

―N・Sエンジニアリングでは、代表取締役に就任されています。

正直に言うと、引き受ける人がいなかったからです。社長にいろいろ意見を言っていたら、「それならお前がやれ」と言われ、そのまま引き受けることになりました。

ただ、経営は簡単ではありませんでした。設計会社なので、仕事を出してくれる企業がなければ成り立ちません。社員は12人いましたが、仕事がなければ給料も払えない。とにかく営業に出て、仕事を求めてさまざまな企業を訪問しました。

―技術者から経営者になって、変わった点はありましたか。

立場の違いを大きく感じました。社員は給料をもらう立場ですが、経営者は支払う側です。その責任の重さを強く感じました。

一方で、高専で学んだことが役立っていると実感する場面もありました。高専では法学の授業があり、当時は正直よく分かりませんでしたが、経営者として商法や法律に関わる中で、「あれはこのことだったのか」と腑に落ちる瞬間が何度もありました。

―その営業活動の中で、荏原製作所との出会いがあったのですね。

産業機械メーカーの荏原製作所を訪問した際、「あなたの会社を買いたい」と声をかけていただきました。当時、荏原製作所は九州か北海道に設計拠点を検討していたようで、話がまとまり、1993年に会社をM&Aで譲渡しました。

こうして会社は荏原製作所グループの一員となり、荏原環境テクノ北海道に社名変更し、新たにスタートしました。

▲村上さん(左)が設計・製作し、COP3京都会議のときに東京都板橋区の公園内に設置された池の水浄化装置にて(1997年)
▲村上さんが設計・製作した、排水機上ポンプ前に設置したゴミ取り機械(プラスチック製除塵機)にて。北海道の旧美唄川に設置されました(特許数件あり)

―現在は株式会社アールアンドイーで働いていらっしゃいます。入社の経緯を教えてください。

荏原環境テクノ北海道の代表取締役を定年で退任したあと、(公財)室蘭テクノセンターで技術コーディネーターをしていました。その仕事で企業訪問をしていたとき、アールアンドイーの社長から「手伝ってほしい」と声をかけられたんです。

当時、エンジニアリング事業部は人手が足りず、前任者も辞めてしまっていたそうで、引き継ぎも十分にできていない状態でした。最初はクレーム対応から始めるような状況でしたが、「自分の経験や技術が役に立つなら」と思い、仕事を引き受けました。

―現在はどのようなお仕事をされているのでしょうか。

主に、湿式比重選別機など環境分野の機械設計に関わっています。湿式比重選別機というのは、選別材の比重差によって材質を分離する、つまり「水より重いもの」と「水より軽いもの」に選別する装置です。北海道大学と共同研究開発し、廃プラスチックや小型家電などのリサイクルに活用されています。現在は産業技術総合研究所でも、この技術を使った研究が進められています。

▲村上さんが設計・製作した湿式比重選別機。茨城県つくば市にある国立研究開発法人産業技術総合研究所に納品されました

廃プラスチックや海などにあるマイクロプラスチックは世界的に大きな問題です。自動車をヨーロッパに輸出する場合でも、プラスチックのリサイクル率などに関する規制が厳しくなってきています。そうした中で、リサイクル技術の重要性はますます高まっていると感じています。

地球全体で見ても、環境問題は誰かが取り組まなければならない課題です。実際、フィリピンなどではゴミの山が社会問題になっている地域もあります。そうした状況を考えると、環境分野および静脈産業の技術はこれからますます必要になると思います。

―長く機械設計に携わってこられましたが、ものづくりの面白さはどこにあると感じていますか。

自分が考えたものが形になり、加工され、最終的にお客さまのところに納品される。その一連の流れに関われることです。設計したものが実際の機械として動き、成果として目に見える点に、ものづくりの面白さがあると思います。

また、現在はお客さまごとに合わせて機械をカスタマイズして設計しています。そのため、毎回新しい課題があり、それをどう解決するかを考える中で、常に学びがあるところも魅力です。

高専というつながりを社会へ、仲間と技術が未来をつくる。

―村上さんは全国高専同窓会連合会の会長も務められています。どのようなきっかけで携わるようになったのでしょうか。

旭川高専の創立50周年で同窓会長を務めたことがきっかけです。他高専の同窓会活動を知るために会合に参加する中で、当時、九州ですでに立ち上がっていた同窓会連合組織を「全国に広げよう」という動きに加わり、連合会の創立メンバーとなりました。そして、現在は会長を務めています。

連合会では、高専出身者のネットワークを広げながら、その活躍を社会に発信することを目指しています。いわば「高専版の大谷翔平」のような存在が生まれれば、認知や魅力もより高まるはずです。

かつての高専は今のような大学編入制度も整っておらず、「行き止まりの学校」と言われた時代もありましたが、現在は専攻科や大学編入など進学の道も広がりました。それでも、高専の価値はまだ十分に知られているとは思っていません。

各種の仕事をする中で、出身が高専卒と聞くと、独特の連帯感が生じます。今後は全国の同窓会ネットワークを生かし、連携を強めながら、高専出身者の技術や知識を社会に還元していく仕組みづくりに取り組んでいきたいと考えています。

―高専卒業生の力を社会で生かしていくために、今後どのような取り組みを考えていますか。

人生100年時代と言われる今、定年後も働ける人材は多くいます。私自身も80歳ですが、現役で仕事を続けています。

高専出身者には高い技術力を持つ人が多く、そうした定年を迎えた人材をもう一度ものづくりの現場で生かす仕組み、いわば「シルバーパワー」を活用したいと考えています。

「こういう技術を持った人はいないか」と声をかけたときに、「私ができます」と手を挙げる人が現れるようなネットワークをつくり、高専の同窓会を通じ、人材と企業をつなげていきたいですね。

―今後の目標について教えてください。

これからの日本のものづくりは、エネルギー、環境、IT・半導体といった分野が重要になります。その中で、私は環境分野の機械設計、いわゆる静脈産業の分野で社会に役立つものづくりを続けていきたいと考えています。また、これまで培ってきた技術や経験を若い世代に伝え、後継者を育てていくことも大切な役割です。

同時に、これからの人生は人との交流も大切にしながら過ごしていきたいですね。スポーツや音楽などの楽しみも大切にしたいです。ストレスをためすぎてもいけませんし、逆に刺激がなさすぎてもよくない。人と話しながらバランスを取り、これからも楽しく人生を過ごしていきたいですね。

―若い技術者にはどんなことを伝えていきたいですか。

技術者は少し「変わり者」くらいがちょうどいいと思っています。斜めから物事を見る視点がなければ、新しいアイデアは生まれません。自分の個性や得意分野を大切にしてほしいと思います。そして、技術というのは、一度身につければ年齢に関係なく生かし続けられる、一生の財産です。

ただし、人とのつながりも同じくらい大切です。自分の専門だけでなく、他分野の人と支え合える関係が大きな力になります。よく「角を取って丸くなれ」と言いますが、私はそうは思いません。四角のままでも、いろいろな人が集まれば結果として丸くなるんです。

誠実に人と接していれば、仲間は自然と増えていきます。人と語り合いながら、つながりを大切にしてほしいです。

―進路を考える中学生や、高専生へメッセージをお願いします。

まず、自分が何に興味があるのかを考えてほしいですね。ものづくりが好きなら工学系、商売が好きなら商業系というように、自分の方向を見極めることが大切です。もし分からなくても、挑戦を重ねる中で見えてきますし、勉強することで選択肢は広がります。

また、高専や大学ではさまざまな地域から仲間が集まります。そうした出会いは大きな財産であり、自分に足りない部分を補い合うことができます。

仕事を長く続けるためには、「自分に合った仕事内容・お金・人間関係」の3つのバランスが大切です。私自身も最初から自分に合う仕事が分かっていたわけではありませんが、経験を重ねる中で今の仕事につながってきました。

高専での学びや仲間との出会いは、将来必ず生きてきます。なぜ勉強するのかを意識しながら、ぜひ自分の可能性を広げていってほしいと思います。

―最後に、村上さんにとって「高専」とはどんな存在でしょうか。

人生そのものです。特に寮生活は大きかったですね。60年以上経った今でも、当時の仲間とは強い絆があります。北海道の広い地域から集まった仲間と共同生活を送り、勉強したり、遊んだり、そうした経験が今の自分をつくっていると思います。

人との出会いこそが、人生の財産です。いろいろな人と出会い、楽しく過ごしていくこと。それが元気でいる秘訣です。

村上 孝志
Takashi Murakami

  • 株式会社アールアンドイー エンジニアリング事業部 シニアディレクター
    全国高専同窓会連合会 会長

村上 孝志氏の写真

1967年3月 旭川工業高等専門学校 機械工学科 卒業(第一期)
1967年4月 株式会社三栄精機製作所
1981年10月 株式会社N・Sエンジニアリング
1991年4月 同 代表取締役
1993年4月 株式会社N・Sエンジニアリングを株式会社荏原製作所へM&A譲渡。株式会社荏原環境テクノ北海道(現:株式会社荏原製作所)へ社名変更。取締役
1998年4月 同 代表取締役
2008年4月 公益財団法人室蘭テクノセンター 技術コーディネーター
2015年4月 株式会社アールアンドイー エンジニアリング事業部 入社。現在に至る

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