大学在学時にミュージシャンを志し、その後建築の道に進むために再度大学に入学、そして一念発起の東大院進学。30代で初めて企業勤めを経験し、40代にして高専の職員となり研究者としての道を歩み始める。そんな驚くような経歴をお持ちの米子高専の川中彰平先生に、お話を伺いました。
ミュージシャン志望から一転、建築の世界へ
―幼い頃はどのような子どもでしたか。
空想がちで、ふわふわとした子どもだったと思います。漢字を創作したり、物語を考えたり、新しいゲームのルールをつくったりと、自分で新しいことを考えるのが好きでした。「新しいことを考えること」は今でも私の趣味で、「思考は一番お金のかからないエンターテインメントだ」と高専の学生たちによく伝えています。
―川中先生は元々ミュージシャンを目指していたそうですね。そのきっかけを教えていただけますか。
幼少期から海外の人たちとの交流があり、他国の文化や情勢を知るようになったのがきっかけです。私の母は、ホームステイ先としてさまざまな国の留学生を家に受け入れており、私自身もロンドンにホームステイをするなど、グローバルに交流を行っていました。
私が15歳くらいの頃、留学生ではないのですが、イスラエルの青年をホームステイで家に受け入れたことがありました。面白い方で、帰国後も文通をしていたのですが、当時のイスラエルのイツハク・ラビン首相が暗殺された事件を境にパッタリと連絡が取れなくなってしまったんです。
実はそのイスラエルの方はラビン首相と繋がりがあったようで、「こんなことがあるんだな」とショックを受けました。それから、地球環境や世界平和に対して真剣に悩むようになります。
自分に何かできることはないかと考え、アメリカの大学に進学して国連で働くか、モラトリアム期間とも言われる日本の大学に進学してミュージシャンになり、音楽で世界平和を訴えるか、進路を迷っていました。考えた結果、後者の方がより多くの人に影響を与えられると思い、関西学院大学の社会学部への進学を決めました。
―そうだったんですね。音楽にはいつから触れていたんでしょうか。
バンド歴は小学生のときからありますが、作詞作曲は中学3年生からです。自作曲は現在100曲以上あります。中学校の図書館に『ジョン・レノン ラスト・インタビュー』(ジョン・レノンが亡くなる二日前に行われたロングインタビューを綴った書籍)が置いてあり、ビートルズは母が好きだったなと思い、ふと手に取ってみたのがきっかけでした。
読後は「ジョン・レノンはこんなことを思いながら曲をつくっていたのか」「自分も同じように曲がつくれたら」と大きな影響を受け、それからギターを持ち、曲作りに励むようになりました。他にも国内ならMr.Children、海外ならボブ・ディラン、ニルヴァーナなど、さまざまなアーティストの音楽を聴き、影響を受けています。
―そこから一転して建築の道に進んだ経緯を教えていただけますか。
関西学院大学卒業後、3年ほど関西のインディーズシーンでバンド活動を行っていました。複数の大手レーベルからのオファーもあり順調のように見えましたが、結局タイミングが悪く、音楽で生計を立てるほどの成功はできませんでした。
そこで、祖父が大工、父親が建築家、母も元ゼネコン勤務と、建築一家だったこともあり、両親からの勧めで建築を学び直すことにしました。再びセンター試験を受けるのは辛かったので、編入学で入れるところを探し、滋賀県立大学に編入学し、建築の道に進み始めます。
―初めての建築の勉強はどうでしたか?
建築のデザインにとても面白さを感じました。建築というのは、考えて、考えて、考え込まないとアイデアが出てこないものです。もともと考えることや生み出すことが好きだったので、性に合っていたのだと思います。
どんどんのめり込み、気づけば設計課題の講評で上位に選ばれるほど、熱心な学生になっていました。「もっと建築を学びたい」「どうせ学ぶならトップクラスの人間が集まる環境に身を置きたい」と強く思うようになり、東京大学の大学院を受けることを決意します。
当時、滋賀県立大学から東大の院に進む学生はおらず、周りからは「絶対無理だよ」といったネガティブな反応が多かったです。個人的にもハードルの高さは感じていましたが、それよりも「トップの環境で学ばなければもったいない」という思いの方が強くありました。
―その結果、東大の院に無事合格されたのですね。
建築の勉強に苦手意識はありませんでしたが、当時はかなりハードに院試の勉強をしたので、報われたときはとても嬉しかったですね。滋賀県立大学から東大の院に合格した学生は初で、周りも驚いていました。
東大は、先生だけでなく、学生も聡明な方ばかりで……恐ろしかったですね(笑) 中途半端な論理やアイデアではなかなか認めてもらえない。でも、辛いと思ったことは全くなく、むしろ楽しさを感じていました。
また、UCバークレー(カリフォルニア大学バークレー校)から進学してきた現在の妻や、今教員として働いている米子高専とのご縁を繋いでいただいたビルディングランドスケープ(アトリエ系設計事務所)代表の山代先生(芝浦工業大学 建築学部 建築学科 教授)など、さまざまな素晴らしい出会いを与えてくれたのも東大でした。
建築が及ぼす環境破壊に疑問を感じ、木造で解決を探る
―卒業後は奥様とデザイン事務所を開業という、またまた驚くような進路ですね。
はい、周りの学生は当たり前のように就職していましたので、驚かれるのも無理はありません。当時私は音楽も続けており、自由な時間が欲しかったというのが一番の理由です。妻も両親が事業主だったので、会社員になるという選択がむしろ違和感だったようです。
開業後は設計やロゴの作成をメインで行っていましたが、自分たちで仕事を進める中で、建築の実務をしっかりと学ぶ必要があると感じるようになりました。そこで、父の紹介で鳥取県米子市の組織設計事務所に就職し、33歳で初めて会社員になります。
ここでは工場からお寺の改修まで何でも行い、実務の基礎を学ぶことができました。ただ、深い議論が行われない点、考えるべきことが考えられないまま物事が決定してしまう点など、知的好奇心が満たされる環境ではなかったのをストレスに感じていました。
もっと面白く刺激的な仕事をしたいと思い始めた頃、大学院のときに参加したワークショップを主催していて、先ほどお話にも挙げましたビルディングランドスケープがスタッフを募集していることを知ります。アトリエ系設計事務所のスタッフとしては、私は年齢が高く、ダメ元で応募しましたが、代表の山代先生がこれまでの経歴を面白がってくださり、入所を受け入れていただきました。
―ビルディングランドスケープでのお仕事が現在の研究内容につながっているそうですね。
現在のライフワークとも言える都市木造(都市部に立つ中高層・大規模な木造建築)、中大規模木造(中高層・大規模な木造建築)、そしてCLT(Cross Laminated Timber)に出会ったのがビルディングランドスケープでした。
今まで鉄筋コンクリートや鉄骨でしかつくれなかった大規模なビルを木造でつくるという動きが、日本では2016年ぐらいから加速しています。これに日本でいち早く取り組んだのがビルディングランドスケープで、私も担当として携わっていました。
CLTは、複数の木材を重ねて一つの木材をつくる「エンジニアリングウッド」と言われる比較的新しい建材です。簡単に言うと、板の繊維方向が直行するように何枚も重ね合わせてつくった板を指します。CLTによって、工夫次第で大規模なビルを木造で実現できます。
実は建築の勉強を始めてから、建築が環境に与える負荷に対して深く疑問を抱いていました。建築を建てるために自然を切り開き、建築材料の生成、維持や解体のために大きなエネルギーを発し、化石燃料を消費する。建築を考えることやデザインは好きですが、もともと自分の根本的な活動のモチベーションであった、「少しでも地球環境や平和に貢献したい」という思いとの矛盾を感じていたのが事実です。
木材やエンジニアリングウッドを使えば、鉄筋コンクリートや鉄骨よりも二酸化炭素の発生量を抑えられます。また、木はうまく循環させることができれば、太陽エネルギーを活用し、少ない化石燃料で「切り、使い、植えて、育てる」といった循環が可能な資源です。
このような技術・思想と出会ってから、「これまで鉄筋コンクリートや鉄骨でつくられてきた建物を一つでも多く木造で実現すること」が自分のライフワークであると考えるようになりました。今は、世の中に木造を増やすために研究を進めています。
代表の山代先生は、現在の高専での仕事を紹介してくださった張本人でもあります。そのため、ビルディングランドスケープへの転職が、私の人生のターニングポイントとなったことは間違いありません。
考え抜く力、表現力、自由な発想の大切さを高専で伝える
―会社員を経験後、どのような経緯で高専の教員になったのでしょうか。
2年半ほどビルディングランドスケープで勤務した後、ハウスメーカーである三井ホームの設計部である三井ホームデザイン研究所が、私が得意とするCLTなどの木材建築の設計が得意な人を探しており、オファーをいただき移籍しました。三井ホームデザイン研究所では私のCLTの知見を生かし、保育所や老健施設、商業施設などを設計しました。
また、音楽の話ではありますが、2020年には私がボーカル・キーボードを務めるバンド「フラガラッハ」がインディーズデビューしたんです。Apple MusicやSpotifyなどでも配信しているので、ぜひ聴いてください!
▲創作ロックバンド「フラガラッハ」のジャケット(左から2番目:川中先生)
そうして5年ほど勤めたタイミングで、恩師である山代先生から、米子高専の新人教員に関して相談を受け、私を推薦しようと思っている、というお話をいただきました。
実は、以前から山代先生のようなプロフェッサーアーキテクト(大学などで教育・研究を行いながら設計も行う建築家)に憧れがあり、山代先生に「ポストがあれば紹介してください」とお願いしていたんです。ですが、まさか地元のポストを紹介していただけるとは思っていませんでした。当時は横浜に住んでおり、地元に戻ることを妻と何度も話し合った末、高専の教員になる決断をしました。
―現在、取り組んでいる研究について教えてください。
持続可能な環境・山・林業を可能にするための木造建築の実現のため、さまざまな研究を行っています。1つは、鳥取県の木製品の特長を生かした、中層向け(3〜5階建て)の建物を木造でつくるための新たな木構法の開発です。
鳥取県には、全国に数ヶ所しかないCLTの工場があります。さらにLVL(Laminated Veneer Lumber、単板積層材)と合板の工場もあるという、非常に面白い県です。せっかく工場が集まっているのであれば、CLTやLVL、合板を組み合わせた新たな構法を開発しようと、鳥取県や鳥取県木材協同組合などと合同で研究を行っています。
また、鳥取県内の企業と共同で、先進的な木製品の研究開発も進めています。今進めているのが鳥取県の建築用合板メーカーさんがつくっている「ハニカム合板」の活用です。
ハニカム合板は、等間隔に穴を開けてデコボコに削った板を重ね合わせてつくった合板です。一般的な合板は、薄い板をしっかりと貼り合わせてつくられますが、ハニカム合板の場合は1枚1枚がデコボコなので重ね合わせた際に中に空間ができます。そのため、一般的な合板よりも軽く、断熱性にも優れています。
ハニカム合板のさまざまな活用法を模索しており、例えば照明として使う方法が1つ。合板の穴から漏れる光がオシャレで、デザイン性のある照明がつくれるのではと考えています。また、風は通しますが虫は入ってこられないので、木の網戸として使う方法もあります。このように、ハニカム合板にはさまざまな用途があり、いろんな可能性を秘めています。
さらに、山代先生の研究室と共同で、島根県雲南市にある古民家活用の勉強会を行っています。今、建築界では「芸術的解体」という、建物をただ取り壊すのではなく、壊した後の木材の活用法を検討したり、解体前にワークショップを行ったりと、「どのように人の心に残していくのか」が1つのテーマになっています。
雲南市の古民家も、どのような芸術的解体を行うのか、芝浦工業大学と共に検討しています。今後も、他大学や自治体と共同での開発やワークショップなど、あらゆる活動に携わっていく予定です。
―アメリカにいらっしゃるというご家族についてお聞かせください。
妻と、7歳になる長女、今年1月に生まれた長男の3人が、現在ロサンゼルスに住んでいます。私は、米子市への単身赴任という形になります。今は年に3〜4回程度のペースで私がアメリカに帰り、次は9月の夏休みに渡米できそうです。アメリカでの過ごし方は、長女を小学校の送り迎えや、1歳の長男のお世話をする妻のサポートなど、基本的に家庭のことばかりですね。
妻は子どもを育てながら通訳・翻訳家として働き、アーティストとしての一面も持っていますから、パワフルな女性だなと感じます。「先のことは何とかなる」という考えで突き進める点は、似たもの同士だなと思います。
―高専での指導で力を入れていることは何ですか。
自分で考える力とプレゼンテーションの力を養ってもらうことです。プレゼンに関しては、高専生は苦手意識を持っている人が多いなと感じています。欧米の学生に負けないくらいのプレゼン力を付けてくれればと思い、指導をしています。
具体的には、学生に答えのない問題に取り組んでもらい、プレゼンする時間を設けています。例えば、「日本の住環境の歴史から、今後どのような変化が予測されるか」といった問題です。論理的かつ独創的な答えを出してくれた学生を指名し、オーディエンスにしっかりと伝わるような話し方に気をつけながら、発表してもらっています。
―プレゼンのコツを教えてください!
とにかく自信満々に話すことでしょうか。あとは、相手をしっかりと見ること。質問をされた際には、「なるほど、そうですね」などと受け答えをしながら頭をフル回転させて、次の回答を用意する。自信のある発表内容なのであれば、どんなに難しい質問をされたとしても、怯まずに言い返す勇気を持つことが大事だと思います。
―最後に、高専生へメッセージをお願いします。
高専生は、優秀で、真面目な学生が多く、いつも感心しています。将来をしっかり考えている学生も多い印象です。ただ、真面目であるからこそ、周りが見えずに視野が狭くなってしまうこともあると思うんです。
世界は広いですし、たった1回失敗したとしても何も問題はありません。私は今まで何度失敗したかわかりませんが、それでも何とかなっています。もちろん努力は必要ですが、失敗を恐れず、もっと自由な発想で、人生を切り開いていってほしいなと思います。
川中 彰平氏
Shohei Kawanaka
- 米子工業高等専門学校 総合工学科 建築デザインコース 助教
1997年4月 島根県立安来高等学校 卒業
2002年3月 関西学院大学 社会学部 社会学科 卒業
2009年3月 滋賀県立大学 環境科学部 環境計画学科(現:環境政策・計画学科) 卒業
2011年3月 東京大学大学院 新領域創成科学研究科 社会文化環境学専攻 修士課程 修了
2011年4月 デザイン事務所 開業
2013年10月 株式会社平設計
2016年1月 有限会社ビルディングランドスケープ 一級建築士事務所
2018年7月 株式会社三井ホームデザイン研究所
2023年9月より現職
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