豊田高専を卒業し、京都大学に進んだ後、建設大手の竹中土木に入社した大西絢子さん。現在に至るまで、10年以上にわたり土壌環境の業務に携わっています。「高専出身者に会うと、不思議とホッとする」と話す大西さんは、高専での学びを通じて、自分が本当に望むことを見つめ、そのためにどう動けばいいかを考える力が身についたそうです。高専時代の思い出や、現在までのキャリアについてお伺いしました。
実行力が磨かれた高専時代
―豊田高専に進学を決めた理由を教えてください。
中学時代、周りからは「その成績なら、高校から大学はこの進学ルートで決まりだね」とよく言われていました。しかし、当時は敷かれたレールに乗ることに対して疑問がありました。私は覚えていないのですが、母には「進学校に進んでも、将来が見えなくて何をしたらいいかわからなくなりそう」と言っていたそうです。
一方で、幼い頃から父に「手に職をつけた方が良いよ」と言われていたこともあり、漠然と「大学に行って長く働き続けられる仕事に就きたい」とは考えていました。両親が共働きだったこともあり、私にとっては、働き続けることが当然のことだと思っていました。
そんなときに、両親から高専を勧められて豊田高専の見学に行きました。トサカヘアーの個性的な人がいたり、寮の前で楽しそうに話している学生がいたりと、みんなが自由に過ごしている姿が印象的で、漠然と「ここで勉強できたらおもしろいだろうな」と思いました。とにかく、雰囲気が明るかったのをよく覚えています。
当時はまだ「高専=就職に有利」というイメージが強く、高専から大学に進学する人は限られていたため「進学校に行かないと大学に進めない。もったいないよ」と言う人も、周りにはいました。しかし、高専から大学編入の実績があったことは確認済でしたし、「そこまで言われるなら、絶対に高専にも大学にも行ってやる」という思いを心に決めました。
―実際に高専に入学して、いかがでしたか。
将来の仕事はまったく考えていなかったのですが、小さい頃から気管支喘息を患っていたこともあり、公害問題に興味があったため、名前に惹かれたという理由で「環境都市工学科」に進学しました。中学校のようにスラスラと解ける問題はほとんどなく、勉強は難しかったのですが「これが高専なんだな」と、妙に納得感もありました。
また、優秀な人がたくさんいて、勉強方法や取り組み方が自分とは違ったので、同級生から刺激を受けることもたくさんありましたね。おかげで5年間一生懸命勉強に取り組むことができたと思います。
ただ、「環境都市」という名前でも、結局は土木工学がメインの学びだったため、色々なカリキュラムをこなす中で、「あれ? 何か思っていたのと違うかも」とは感じました(笑)。もう少し公害問題など環境に焦点を当てた授業があるイメージを持っていたからです。それでも、もともと大学に行くことは決めていたので、「興味がある分野は大学で勉強してみよう。今は学べることを真剣に学ぼう」と考え、大学での学びを楽しみにしていました。
―高専時代、印象に残っていることはありますか。
5年間を過ごした寮生活でしょうか。先輩や後輩と共同生活をする中で、他人との距離の取り方、コミュニケーション力を学べたと思っています。3~4年次は班長に、5年次では1~2年生世話係をする「指導寮生」にもなりました。指導寮生は担当の階にいる学生の点呼をとることが主な仕事ですが、せっかくなら自分が楽しいことをしたいと思い、たびたび季節行事を企画していましたね。
夏は竹林を所持している先生からもらった竹で流し素麺をやったり、笹の代わりに廊下の端から端に長い紐を2、3本渡して七夕の願い事を書いた短冊をぶらさげたり、節分のときにはひと部屋に集まってみんなで豆まきをしたり……。ドラム缶をどこかからもらってきて、焼き芋や焼き銀杏を焼いて食べる企画をしたこともあります。
ここだけ聞くと行動力のある学生のようですが、中学生までは勉強に打ち込んでおり、友だちとワイワイするようなタイプではありませんでした。高専に来てから自分の殻を破って行動を起こせるようになったと感じます。同級生にバイタリティのある人が多かったので、影響を受けたのもあるかもしれません。
また、豊田高専は自立心を養うことを教育理念とする学校なので、学生の意見や行動を頭ごなしに否定する先生がいなかったことで、楽しい5年間が過ごせたのだと思います。
高専と大学での学びを生かせる仕事へ
―卒業後は京都大学に編入されていますが、そこで環境分野を思う存分学べた実感はありましたか。
当初はほかの大学を目指して勉強していたのですが、チャレンジの気持ちで受験をしたら京都大学の地球工学科に進めることになり、自分でも驚きました(笑)。とはいえ、「将来はこの仕事をしたい」といった明確な進路は描いておらず、とにかく高専時代に学べなかった環境分野を突き詰めたい一心でした。
期待通り、大気汚染や環境問題など、自分が興味のある分野は勉強できました。一方で、高専の勉強以上に難しく、また、周りの優秀さを目の当たりにし、自分はまだまだ未熟だと感じました。ただ、自分が知らないことをたくさん学び、優秀な人たちに揉まれるのは非常に刺激的で、大学に行ってよかったと思っています。
3回生では全コマ授業を入れ込み単位を取得しつつ、水泳サークル、子どもと遊ぶサークル、環境問題に取り組むサークルといった3つのサークルに入るなど、キャンパスライフも謳歌しました。4回生では環境リスク工学講座で研究に没頭しましたが、1年間だけでは足りず、大学院に進学しました。
―どんな研究をしたのでしょうか。
大気汚染に関わる研究がしたいと考え、いくつかの研究室をまわっていたときに「環境リスク管理」について興味を持ちました。それまでは「汚染物質=悪いもの」と単純に捉えていたのですが、実際はその物質が人にどれくらい影響を与えるかが重要だと知り、新しい視点を得たことが嬉しかったのを覚えています。
世界には、様々な目的で生み出された数えきれないほどの化学物質が存在しています。私はこうした化学物質が環境や人体に与える影響の評価方法に興味を持ち、大学では環境リスク工学講座で研究することにしました。
汚染物質の一つであるDDTと総称される農薬や殺虫剤は、農作物の大量生産や亜熱帯地域の人々の疫病防止に効果的であるという利点がある一方で、生活環境全体を徐々に汚染する可能性があります。私は、そのDDTを対象として、「PBPK(生理学的速度論)モデルによるDDTs(DDTとその代謝生成物質DDEの総称)の体内動態評価」について研究しました。
大学での研究を踏まえ、大学院では「日本とインドにおけるDDTsの健康リスク評価に関する研究」を行いました。DDTが環境中へ放出されてからの環境中動態評価と、環境から体内へ入ってきてからの体内動態評価、体内の臓器に蓄積した汚染物質による人への発がん性の評価の3つの評価を合わせた健康リスク評価を研究しました。日本とインドのいずれにも疫学的データが数多く存在していたため、製造禁止や使用禁止による人への影響の比較を考察することができました。
研究は思っていた以上に楽しく、研究室の居心地は良かったのですが、研究の道へ挑む気持ちが固まらず、新たな道へ進んで行くことに決めました。一般企業への就職を早々に考えていましたが、当時は就職氷河期——100社以上にエントリーしても箸にも棒にもかからず、大変辛い思いをしました。
―最終的に、現在の職場に決めた理由は何でしたか。
当時、竹中土木では2003年から施行される「土壌汚染対策法」により、土壌汚染に関する工事が大きくなるだろうとの見込みから、建設環境の分野がわかる人を求めていました。当社の京大OBから話を聞き、高専で学んだ土木工学と大学で学んだ環境工学を生かせるのはここかもしれない、と思ったのが決め手です。
入社1年目は新社員研修として現場に配属されました。とにかく現場を知ることが必要だという会社の考えは、今ならよくわかるのですが、当時は指示されている意図が理解できず、何をしたらいいのか分からなかったので、なかなか大変でした(笑)。
2年目から配属された土壌汚染の対策工事を進める部署では、1年目の現場で学んだことの意味が少しずつ理解できるようになり、また建設環境の分野に足を踏み入れることができ、少しずつやりたいことに近づいている感覚を持ちました。
今思うと「自分にはこれしかない」「やりたいことはただ一つだけ」と、決めつけず、どんな経験も何かの役に立つと思って、一生懸命仕事に取り組んだことで、今も楽しく働くことができているのかもしれません。
未来の自分が納得できる自分でいたい
―仕事のやりがいはどこにありますか。
現在の業務は、土壌汚染対策法に基づく土壌汚染の調査・対策工事の計画、施工管理、行政報告までの実施とマネジメントがメインです。
土壌汚染は、その概念は分かっていても、どのように対応したら良いかが分かる人は少ない分野です。土壌調査の実施や汚染土壌の除去、汚染された土壌を適切に管理することで、困っている人の役に立てるのではないかと思っています。また、土壌汚染の専門家が工事に携わることで、適切な方法で環境の負荷を減らすことができる分野なので、とても意義のある仕事だと自負しています。
―現在、力を入れていることを教えてください。
2024年1月から社内で「たけどこまちWG」という女性技術者のグループ活動が始まりました。年々女性の志望者が増える建設業界において、女性社員が働きやすい環境をつくるために当事者が集まって提案していく取り組みです。
たけどこまちWGの方針は、男女問わず、長く働き続けられる魅力ある職場環境をつくること。
日本建設業連合会では、2014年に「けんせつ小町」というネーミングを付けて、建設業界の女性が能力を発揮できる社会を目指して活動を進めてきましたが、2014年当時、当社の女性技術者は、わずか10名弱。社内の誰もが、けんせつ小町という名前にピンと来ないのが現状でした。
それが今では約40名まで増えており、女性社員が働きやすい環境をつくることが必須となりつつあります。建設現場では男性中心の環境だったので、女子トイレが必ずしもあるわけではありません。作業所に女性が一人で配属されることもあり、何か不安があった時など、誰に相談すればよいか分からないこともあります。そんな問題点を一つ一つ丁寧に洗い出して、女性だけに特化しない、男女ともに良い環境を築くためのワーキングを年4回開催しています。
まだまだ駆け出しですが、この活動を後輩へ気持ちよく引き渡していけるよう、道を拓くべく、日々活動を進めています。
プライベートに関しては、子どもが大きくなり、ようやく自分の働き方を見つめ直す時間が持てるようになりました。今、目の前にある仕事を一生懸命に取り組むのはもちろんのこと、もっと視野を広げて業務に取り組みたい。自分の身近な人だけでなく、他分野など多くの人と接することで、自分の興味を広げていきたいと感じています。今の環境に甘んじず、ステップアップする気持ちをいつまでも忘れないでいたいです。未来の自分が納得できる自分でいることが、目標ですね。
―高専生で良かったと感じることはありますか。
高専にいた当時は「興味があることが学べない」と感じていましたが、振り返ってみると、高専で学んだ土木工学の基礎が現在の仕事に大きく役立っています。何より高専でしっかりとこれらが勉強できたことには非常に感謝しています。
また、自由度が高く、一人ひとりの個性を潰さない環境で、10代という多感な時期を過ごせたことも、大きな影響を与えてくれました。若手の社員を見ていると、自分の意見を言いたくても言えない方が多いと感じます。それは、先生に従わなければいけない学生生活を送ってきたからではないかと思うのです。自立を重んじる高専では、ある程度の裁量が個々人に委ねられていたからこそ自由に行動ができ、それが今につながっていると感じます。
それぞれの個性はすぐに発揮できるものではないかもしれませんが、きっと10年、20年後に役に立つ日がくるはず。現役の高専生たちは、今の環境でその個性をのびのびと育ててください!
大西 絢子氏
Junko Onishi
- 株式会社竹中土木 東京本店 工事部 土壌環境グループ 課長
1999年3月 豊田工業高等専門学校 環境都市工学科 卒業
2001年3月 京都大学 工学部 地球工学科 卒業
2003年3月 京都大学大学院 工学研究科 都市環境工学専攻 修士課程 修了
2003年4月 株式会社竹中土木 入社
2004年4月 同 営業本部 エンジニアリンググループ
2005年5月 同 技術本部開発グループ 竹中技術研究所 研究員
2008年7月 株式会社竹中工務店 エンジニアリング本部 出向
2014年5月 株式会社竹中土木 東京本店 工事部 土壌環境グループ 現在に至る
※
2010年4月~2011年4月 第1子 産前産後休業、育児休業取得
2012年11月~2014年4月 第2子 産前産後休業、育児休業取得
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