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タイと日本をつなぐ架け橋に。10年に渡る日本での留学経験を生かし、タイでの指導や研究へ励む

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高校生の時に、日本政府奨学金留学生として旭川高専へ編入したパイラヤ・チョエイサイ先生。現在はタイのコンケン大学で学生への指導を行いながら、タイと日本の学生間の国際交流にも積極的に取り組んでいます。そんなパイラヤ先生に日本での思い出や現在の大学での取り組みについてお話を伺いました。

タイから北海道へ! 寒さや言葉・文化の違いに苦労する

―日本の高専へ編入したきっかけを教えてください。

旭川高専へ編入する1年10ヶ月ほど前の高校2年生の時に、赤十字が主催する国際キャンプにタイの代表として参加し、初めて日本に訪れました。その後、AFS(※)の交換留学生として、福岡女学院高等学校で1年ほど学んでいます。

※異文化学習の機会を提供する世界的な教育団体。ボランティア組織「American Field Service(アメリカ野戦奉仕団)」が起源。

このような日本での留学経験があったので、先生に高校の代表として推薦いただけて、日本政府が行った奨学金留学生の試験を受けることになりました。幸運にも合格者7人のうちの1人に選ばれて、合格者はそれぞれ日本各地の高専に振り分けられ、中でも私は最北に位置する旭川高専に配属されました。

壇上に立つ当時のパイラヤ先生
▲合格者7人で、留学生代表として日本語学校の先生に感謝の言葉を伝えました

最初は、日本は治安が良くて安全な国だというイメージを持っていたこと、あとは日本のアニメが好きで、日本に興味を持っていたのが来日のきっかけでした。アニメは『Dr.スランプ』が好きで、タイでよく見ていたのが懐かしいです。

―初めて日本を訪れた時の印象を教えてください。

当時タイはまだまだ発展途上で、首都のバンコクでも高層ビルが多くなかった中、初めて成田国際空港に降り立ち、高層ビルがずらりと並んでいる様子を見て驚きました。また、当時タイにはあまりなかった高速道路が発展しており、道と道がいくつも重なっている光景が広がっていました。そんな「綺麗な都会の風景」というのが、日本の最初の印象です。

―では、初めて北海道に来た時はいかがでしたか?

私が乗る飛行機が北海道に着陸した時、窓から真っ白な雪景色が見えました。その時に、こんな寒い場所でやっていけるのだろうかと、自然と涙が出てきたのを覚えています。

タイは年中暖かい国ですので、北海道の寒さには本当に苦労しました。旭川高専に行くことが決まった時にも、いろんな人から心配されています。ただ、慣れてくると、雪の結晶を眺めながら通学できる、旭川高専ならではの素晴らしい環境に配属されたのだと実感するようになりました。

―旭川高専に編入してから、苦労したことを教えてください。

日本語の授業についていくのには苦労しました。所属していた工業化学科(現:物質化学工学科)は、思うに電気や機械の学科よりも難しい日本語がたくさん登場する学科でした。教科書も読めませんし、専門用語に関する説明文も日本語なのでわかりません。下宿先のおじさんやおばさんにお願いして、読めない単語にふりがなを振ってもらい、辞典で1つずつ言葉を覚えていきました。

また、最初はタイと日本の文化の違いにも戸惑いました。タイでは、先生と学生が楽しく話しながら賑やかに授業が進んでいきますが、日本の場合、授業中に積極的に発言する学生はあまり見られません。ですので、最初は私が授業中に先生へ質問をしすぎて、クラスメイトから変な目で見られていました。

大学の先生になる夢を目指して、日本での進学を決める

―高専卒業後、長岡技術科学大学に進学されていますね。

もっと日本で高い技術を学びたい気持ちが大きかったのが理由です。また、その頃には大学の先生になりたいという夢を持っており、そのためには博士課程を修了する必要があったので、日本に残ることを決めました。

旭川高専の学校前で記念撮影
▲高専5年生の頃のパイラヤ先生

ただ、不安だったのが経済面です。奨学金をもらえないと日本で学び続けることはできません。そんな中、私の周りの友人や先生方がサポートしてくださり、奨学金を得ることができました。

その後も周囲のサポートを受けながら、修士課程、博士課程に進む度に奨学金をもらっています。毎回奨学金を得られたのは、日本の皆さんが持つ優しさや助け合いの精神のおかげだと心から感じています。

―大学での思い出を教えてください。

長岡技術科学大学ではいちばん研究に熱心な研究室に入りました。周りの学生はみんな一生懸命研究に取り組んでいましたし、先生には多くの学会に連れて行っていただけて、良い環境だったと思います。朝から深夜まで研究をして、時には徹夜で朝まですることもありました。研究ばかりの毎日でしたが、やはり良い結果が出た時には、大きな楽しさややりがいを感じていました。

研究デスクに向かいながら自撮りをするパイラヤ先生
▲長岡技科大でのパイラヤ先生。研究室にて

また、「どうしたら聞いた人が感動してくれるだろう」と考えながら学会の準備する時間も楽しかったです。発表が終われば、先輩方が美味しいご飯をご馳走してくださいましたし、日本の名所も見ることができ、とても有意義な時間でした。

実験中の一枚。様々な器具が置かれている
▲長岡技科大でのパイラヤ先生。実験室での様子

―博士課程終了後は、タイに戻り、コンケン大学の教員に着任されていますね。

元々、大学教員をするなら、田舎の大学が良いと思っていました。旭川や長岡で10年以上を過ごし、田舎の良さというものに魅了されたからです。時間の流れがゆっくりで、自分の時間を持てて、通勤に時間を取られない。私はバンコク出身なのですが、バンコクだと通勤だけで時間がかかりますし、渋滞もひどく、人も多くて、あまり生活をする場所ではないなと感じていたんです。

そういった理由で、田舎の大学を希望していたところ、先輩の紹介で、タイの東北地方にあるコンケン大学に受け入れていただくことができました。

―日本での生活が長かったと思いますが、タイに戻ってから苦労はなかったのでしょうか。

最初は、日本とタイの研究設備の違いに驚きました。日本では実験室があり、研究器具も余るほど用意されているのですが、タイではガラス瓶を1つ買うのも大変です。もちろん実験室も実験台もないので、実験の準備をするだけで一苦労でした。研究を行うために環境整備を進めたかったのですが、学生や他の教員から理解を得ることも大きな課題でした。

それから20年経った今では、昔と比べたら設備も充実し、日本の先生方が訪れた際には「日本と変わらない」とおっしゃっています。

私と同世代のコンケン大学の先生の中には、日本の大学を卒業された方がたくさんいらっしゃいます。皆さんがそれぞれの学科で改革を始め、日本で学んだことを他の先生や学生たちに伝えて、今の環境ができあがりました。そういった意味で、今のタイの研究環境は、少なからず日本から影響を受けているのだと思います。

―コンケン大学の学生への指導で心がけていることはありますか。

私は環境化学の授業を担当しているのですが、ほとんどの学生が化学に対して苦手意識を持っています。実は私もタイで学生だった時は化学が苦手でした。学生が化学嫌いになるのは、タイの教科書がわかりづらいからなんです。そのため、私が先生になった時には、学生にとってわかりやすい教科書をつくろうと決めていました。

そうして、日本やタイで使われている環境工学の教科書を読み漁り、自分が今まで学んだことも取り入れ、少しずつ執筆と修正を繰り返し、3年前に『環境工学者のための化学』という本を出版することができました。コンケン大学の授業でも教科書として使われていて、学生からも他の先生からもわかりやすいと良い評価をいただいています。

パイラヤ先生著『環境工学者のための化学』の表紙や概要についての情報
▲パイラヤ先生著『環境工学者のための化学』

指導においては、その世代にあった授業を行うことを意識しています。20年前だと学生にノートをとってもらい、宿題を出して内容を定着させるやり方でしたが、今の時代には合っていません。最近ではゲームをしたり、パソコンを活用して教えたりと、授業の内容を学生に合うように年々変えています。

そのような指導が身を結んだのか、3年前に初めて学生投票によって「心に残る先生賞」という大学内での賞を受賞しました。学生から支持され、とても嬉しかったですね。

「心に残る先生賞」の賞状
▲「心に残る先生賞」の賞状

タイと日本間での国際交流に積極的に取り組む

―現在の研究について教えてください。

1つが工場で出る残留廃液をメタン発酵(※)させることによる、代替エネルギーの生成です。タイの主要な農産物にタピオカとサトウキビがあります。20年前に私がタイへ戻った時、タイではサトウキビから砂糖を製造する過程で生じる廃液を利用して、バイオエタノールの生産を始めていました。

※有機廃棄物中の有機物を分解して、再生可能エネルギーであるバイオガスを生成する方法。

ただ、バイオエタノール工場から排出される蒸留残液は、工場内の池に貯めて自然分解させる方法で処理されており、このまま放置すれば温暖化を加速させる要因になると考えられていたんです。そこで、工場から相談を受けて、いち早く日本から学んだメタン発酵技術を導入し、タイへ普及させました。この技術により、今ではタイのすべてのエタノール工場で蒸留残液をメタン発酵させ、代替エネルギーの生成を行っています。

現在は、タピオカ工場の課題解決にも取り組んでいます。タピオカ工場では、廃水処理後に残る窒素をどのように処理するのかが問題でした。これに対して、解決策となったのがウキクサです。ウキクサはタイではただの雑草だと捉えられていたのですが、日本ではウキクサでの廃水浄化に関する研究が進んでいました。

この日本で学んだ技術をもとに、窒素を含む処理液をウキクサでさらに処理し、そのウキクサをタピオカ工場の廃水と混合してメタン発酵を促進する方法を新たに提案しました。本研究は、東北大学との共同研究として現在進行中です。

他にも、日本の優れた下水処理技術をタイに適用させるために、長岡技術科学大学や東北大学、木更津高専などと共同で研究を行っています。このように、タイでの廃水処理やエネルギーの開発に関する研究に幅広く取り組んでいます。

多くのプロジェクトメンバーと一緒に野外で記念撮影
▲WoW To Japanプロジェクトにて、タイ東北地方の市町村自治体に日本の技術を公開

―先生はタイと日本の学生の国際交流にも積極的に取り組んでいらっしゃいますね。

コンケン大学工学部は旭川高専と学術交流協定を締結し、2017年から国際交流を行っています。コロナ禍でもオンラインによる学生交流が実施され、環境や代替エネルギーに関するオンラインセミナーも開催されました。

また、日本が世界各国と科学技術に関する交流を行う事業「さくらサイエンスプログラム」を通じて、コンケン大学の学生や教員が旭川高専を訪問し、研究や授業、実習に参加しました。他にも、さまざまな高専の学生や、元高専生である長岡技術科学大学生が、コンケン大学の研究室を訪れ、研究交流を行っています。

昔は、研究室で外国の学生を受け入れていたのは私くらいでしたが、ここ10年で、コンケン大学での国際交流が積極的に行われるようになりました。私が日本で出会った先生や先輩・後輩などのつながりで、コンケン大学と日本の大学・高専との国際交流に発展することもあり、日本では良い出会いに恵まれていたと常々感じます。

―今後の目標を教えてください。

タイには日本のように「研究室」という概念が一般的ではありません。そのため、先生方が取り組んでいる研究は、基本的にその先生一人で進めます。日本のように、教授や若手の教員、学生が共同で研究を進められ、若い人たちへ知見やノウハウを提供していけるように、研究室がつくれたらと思います。

ただ、やはり新しい文化の理解と受入はハードルが高いことではあるので、研究室をつくる良さを粘り強くタイに伝えていかなければと思っています。

―最後に、高専生へのメッセージをお願いします。

高専という環境は、失敗を恐れずに研究に取り組め、そのうち思いがけない新しい発見に出会えるところです。若いうちからそのような環境に身を置くことで、基礎や理論が固まり、将来的には最先端の研究にも取り組めるようになるでしょう。

日本の高専生は、非常にチャレンジングなイメージを持っています。これからも、高専でさまざまな挑戦をして、自分の力を伸ばしてもらえたらと思います。今勉強を頑張っていれば、将来きっと良いことがあると思いますよ。

パイラヤ・チョエイサイ
Pairaya Choeisai

  • コンケン大学 工学部 環境工学科 准教授

パイラヤ・チョエイサイ氏の写真

1997年 旭川工業高等専門学校 工業化学科(現:物質化学工学科) 卒業
1999年 長岡技術科学大学 環境システム工学課程 卒業
2001年 長岡技術科学大学大学院 環境システム工学専攻 修了
2004年 長岡技術科学大学大学院 エネルギー・環境工学専攻 修了
2004年 コンケン大学 工学部 環境工学科 研究員
2007年 同 講師
2013年 同 助教授
2019年より現職

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