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高専の魅力を明確にし、次の世代に生かしたい! 宇部高専の校長を務めたのち、高専生のキャリアをみつめる

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環境問題に取り組みたいと研究に没頭し、結果、高専教員になられて約40年となる東京高専の三谷先生。宇部高専での5年間の校長赴任後、母校である東京高専へ戻り、特命教授として高専生の可能性を調査する三谷先生に、お話を伺いました。

公害問題に取り組みたいと、博士課程まで研究に没頭

-まず、東京高専へ進まれた理由からお聞かせください

「人と違う人生を歩みたい」という気持ちが強かったので、高校ではなく、当時創設2年目の東京高専に進学しました。とりたてて機械が好きだったわけではありませんが、70歳を過ぎてもなお高専に関わっていることを考えると、不思議な人生ですね。

父が画家だったため、子供の頃から絵を描いたり、紙と鉛筆でモノをつくったりしていました。理系よりもむしろ文系の国語や英語の方が好きでしたが、高専に入って良かったと思っています。

高専では特に数学が大好きになりました。芹沢正三先生という非常にユニークでわかりやすい授業をされる素晴らしい先生に巡り会ったのがきっかけです。また、倫理・哲学の家塚高志先生は、東大で倫理学を専攻されていた方で、若い私たちにも分かりやすく話してくださいました。「生きること」や「死ぬこと」についてがトピックスでしたね。今でも非常に心に残っています。

機械については、専門科目の先生方だけでなく、実習工場の技術職員の方からも多くを学んだと思います。民間企業から来られた鋳造の専門家の石井治吉先生は、指導が明快でした。「技術者は五感が発達しないとだめだ」とおっしゃっていたのが印象的です。つまり、機械のベルトの匂いで故障がわかる、といったことですね。

東京高専での卒業研究にて、疲労試験機の製作に際しての鋳造作業の様子
▲東京高専での卒業研究にて、疲労試験機の製作に際しての鋳造作業(左:三谷先生)

職人技というのはAIの時代でも残っていくでしょう。なぜなら、職人技をAIに学ばせるという手順が必ず必要になりますから。すべてがAIで事足りる時代ではないと私は思います。

―高専卒業後は、東京都の公務員として中央卸売市場で勤務されていたそうですね

そうです。ただ、当時は公害問題が深刻だったこともあり、本当は公害局で環境保全の仕事がしたかったんです。実際に配属された市場では、機械技師として鮮魚冷却用の氷をつくっていました。

でも、とても興味深い経験でしたよ。私は氷の価格を決定する仕事も担っていましたが、市場内には民間の製氷工場もいくつかあります。そんな中、民間の銀行から派遣された方たちと一緒に仕事をすることで、経営や経済に関する知識を学ぶことができ、非常に勉強になりました。ただやっぱり、どうしても公害や環境関連の勉強をしたくなりまして。勉強が嫌いで公務員になったはずなのですが(笑)

私は環境問題に関連する化学と生物学の知識が不十分でしたので、それらを同時に学ぼうと、東京教育大学(現:筑波大学)の農芸化学科に進みました。しかし、編入学制度が整っていなかったので、1年生として入学。年齢は22歳で、同級生からは「お父さん」と呼ばれることもありましたね(笑)

化学と生物学の基礎を身につけた後は、東京工業大学の大学院に進学。学部卒業時には26歳でしたので、企業への就職は年齢のせいでハードルが高くなっており、絶望的な状況でした。そのため、徹底的に研究に没頭しようと、博士課程まで進むことにしたんです。

大学院時代、廃水処理の研究をされる三谷先生
▲東京工業大学の大学院にて、廃水処理の研究をされる三谷先生。毎日のように廃水の化学分析を行っていたそうです

博士課程後は、国立の研究所などで研究職に就くことを漠然と考えていましたが、隣の研究室の先生のご厚意で、環境分析化学の研究室で1年間、助手として働くことができました。その研究室で1年間お世話になった後、東京高専の工業化学科で講師を募集しているというお話をいただき、応募することになったのです。

―母校である東京高専で教員になられて、いかがでしたか?

高専の15歳から20歳までという人間としての変化が激しい時期を、高専教員として間近で見ることは本当にやりがいに繋がります。例えば、最初はやる気のない学生でも、潜在能力を発揮して立派な技術者や研究者に成長する姿を見ることがあるんです。初期教育や指導の重要性を強く感じましたね。

東京高専の教員として最後の年に、クラスの学生と撮った写真
▲東京高専の教員として最後の年、2年生のクラス担任として学生とともに

東京高専では、いわゆる教頭のような役職、総務関係も担当しました。管理職として働きつつも学生たちと研究していたのが、非常に楽しかったです。

副校長になったときは、学校全体を見ることができたため、外部の様々な方々との出会いが増えました。高専を異なる視点で見ることができ、非常に学びになったと思います。

羊を用いたキャンパスの除草について説明した図
▲東京高専の教員として最後の5年間は、身近な環境問題でもあるキャンパスの除草を、4頭の羊を用いて実施。学生のみなさんと羊に癒されながらの実証研究となったそうです

東京を離れ、宇部高専の校長に

―その後、三谷先生は宇部高専の校長になられました

63歳のことでしたね。それから5年間、宇部高専で過ごしました。まさに人生の第4コーナーといったところでしょうか。初めての土地であり、東京生まれで、関東以外の場所はあまり詳しく知りませんでしたから(笑)

基本的に高専の学生は真面目です。よく「東京高専の学生と宇部高専の学生はどう違いますか?」と聞かれますが、基本的な部分は変わりません。ただ、東京高専では私服が許可されていましたが、宇部高専では3年生までは学生服・セーラー服なんです。学生の髪型や服装が乱れていると市民から電話が来ることもありましたが、これは東京ではなかったことです(笑)

―宇部高専での取り組み、プロジェクトなどをお聞かせください

1つは「クォーター制(4学期制)の導入」です。八戸高専が最初に取り入れ、宇部が2番目の導入となりました。高専は科目数が多く、学生がかなり疲れてしまうのが課題だったので、クォーター制にすることで、通常の2学期制よりも1科目に集中して勉強してもらう狙いがあったんです。

例えば通常の2学期制だと、第1学期でA科目・B科目・C科目・D科目を週1で学ばないといけません。しかし、クォーター制になると、第1クォーターにA科目とB科目を週2で、第2クォーターにC科目とD科目を週2で学ぶことが可能になり、通常よりも短い期間内ではあるものの、1つの科目を深く学ぶことができるのです。

第1クォーターは4月から6月上旬まで、第2クォーターは6月中旬から8月までです。夏休みには課題解決型の科目として、チームで様々な研究を行ったり、外に出て市民や中小企業の方々と一緒に課題を解決したりしており、第2クォーターを「ワクワククォーター」と呼んでいます。

夏休みの8月上旬から10月までの2か月間は海外インターンシップもあります。国際交流が非常に盛んで、毎年先生方と相談して、100人以上の学生を海外に派遣し、少なくとも1ヶ月間の滞在を実現しました。さらに、海外から50人以上の学生を招待する取り組みも始めましたね。

台湾の國立聯合大學との交流協定調印式の様子
▲台湾の國立聯合大學との交流協定調印式(2014年11月21日)

海外の行き先は主に東南アジアの国々で、台湾、マレーシア、シンガポールなどです。それ以外ですと、オーストラリアなどがあります。このような交流によって国際的なネットワークが構築され、私が校長でなくなった後も続いていることは嬉しいことです。

高専生は5年間、同じキャンパスで同じような友達や志を持った教員と触れ合いながら、どんどん成長します。しかし、そうすると考え方が狭くなる傾向があるため、外に出て、異なる環境に触れる必要があるんです。海外の同年代の学生から受ける影響は、非常に大きいと思いますよ。

グローバルマイスター認定式での写真
▲グローバルマイスター認定式にて。宇部高専では、国際交流に貢献した学生に「グローバルマイスター」の称号を与えています(2018年3月26日)

特命教授として卒業生の進路を調査——その理由は?

―東京高専に戻られ、特命教授をされていますが、仕事内容は何ですか?

現在は授業を持たずに、特に令和4年は大学との連携教育プログラムの作成や専攻科のカリキュラム改定、卒業生の進路調査などの仕事を行いました。

行った調査の1つに、「東京高専の卒業生約6,400人のうち、どの程度が博士号を取得しているか」があります。最近では社会人ドクターという制度があり、在職しながら博士課程に通って論文を書き、大学の認定を受けることで、博士号が授与される場合もあります。

博士号取得状況の調査結果の図
▲三谷先生が調査された、博士号取得状況の調査結果の一部

また、卒業生が在籍している会社の業務内容と博士論文のタイトルを照らし合わせる調査もしています。一致していたら、企業で技術者として働きながら、さらなる仕事の高みを求めて博士号を取得するという「高専設立の趣旨(科学・技術の更なる進歩に対応できる技術者の養成)」を全うする卒業生がいるんだと思いますね。

この調査は完了しているわけではありませんが、外国の大学で博士号を取得している卒業生が、私が調査した範囲では3名います。もっと多くの卒業生がいる可能性もあると思いますよ。

―先生の今後のミッションや、次にどのようなことをしようとお考えですか?

社会からの高専卒業生への評価は非常に高いのですが、ではなぜ高いのか、その明確な理由を知りたいと考えています。

ざっくり言いますと、高専では高校や大学と同じ教科書を使用して専門科目を学ぶ一方、一般教養の科目は比較的短期間で学ぶところです。一般教養科目を深くじっくり学んでいるわけでもなく、工業高校とも違う高専がなぜ評価されるのか。そのことを、高専卒業生にインタビューすることで明らかにし、日本の教育に対する1つの提言をしたいのです。

高専はまだまだマイナーな存在でありつつも、光る存在だと思っています。その理由を知るためにも、卒業生の経験を聞くことは非常に有益です。高専での5年間は高校とは異なる経験であり、もちろん専門科目は重要でしたが、私にとって一般教養科目も大変重要なものでした。先生たちから学んだことは今でも心に残っており、感謝しています。

――最後に、高専の魅力と未来の高専生に向けてメッセージをお願いします

「普通の高校生活を送りたくない」という人がいれば、ぜひ来てほしいです。具体的には、何かにのめり込んでいる人が対象ですね。例えば、ゲームやミニ四駆、昆虫採集など、何か1つに熱中している人です。

卒業式の日に、研究室の学生と記念撮影
▲三谷先生の研究室の学生と一緒に、卒業式の日に記念撮影

とある学生は、4年生になっても私の授業ではいつも寝ていて(笑)、なのに私の研究室を志望し、卒業研究は優秀でした。また、夏休みは毎日実験に没頭している学生もいました。オレンジの皮に含まれるリモネンを抽出したいと、一生懸命取り組んでいた学生もいました。

みんな1つのことに熱中していましたね。高専はそういう人にふさわしいです。高専の先生方とよく話すのですが、活躍している卒業生を振り返ると、高専での成績ってそんなに関係ないねと感じるんです。

熱中することによって、学生は本当に変わります。優れた技術者になる素質や素材を持っていて、何かに目覚める面白さを知ってしまうと、一直線に熱中してしまうんです。そんな方に、高専に来てほしいと思います。

三谷 知世
Tomoyo Mitani

  • 東京工業高等専門学校 特命教授

三谷 知世氏の写真

1971年 東京工業高等専門学校 機械工学科 卒業
1971年~1972年 東京都中央卸売市場 勤務(東京都公務員)
1977年 東京教育大学(現:筑波大学) 農学部 農芸化学科 卒業
1979年 東京工業大学大学院 総合理工学研究科 化学環境工学専攻 修士課程 修了
1982年 東京工業大学大学院 総合理工学研究科 化学環境工学専攻 博士課程 単位修得退学、工学博士(東京工業大学)
1982年 東京工業大学 助手
1983年 東京工業高等専門学校 工業化学科(現:物質工学科) 講師、助教授、教授
 2004年~2012年 東京工業高等専門学校 副校長
2014年~2019年 宇部工業高等専門学校 校長
 2016年~2018年 国立高等専門学校機構 理事(併任)
 2018年~2019年 国立高等専門学校機構 理事長特別補佐(併任)
2019年より現職

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