卒業生のキャリア公務員

笑顔と誇りを未来へ。高専卒の町長が描く“住み続けたいまち”のかたち

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「笑顔と誇りを未来へつなぐまち 飯南」の将来像を掲げ、島根県飯南町の町政に取り組む松江高専出身の塚原隆昭町長。移住定住施策や地域医療福祉の充実など、暮らしに寄り添ったまちづくりを行う原点には、高専で培われた価値観や多様な仲間と過ごした日々、公務員として最後まで責任を持ち続ける姿勢がありました。

建築への憧れから高専へ。原点は“木の切れ端”

―高専へ進学したきっかけを教えてください。

学校の先生か親の勧めで高専を受験したと記憶しています。当時は建築士に憧れていました。きっかけは小学生の頃、家の増改築で大工さんが木を削る様子を見たことです。木(ヒノキ)の切れ端を面取りしてもらうときれいで、良い香りもして、それをずっと大切に持っていました。

▲中学生の頃の塚原町長

ただ、建築工学科のある高専は県外のため断念し、松江高専の土木工学科を選びました。土木は建築に近いイメージがありましたし、何より県内だったのが決め手でした。

―高専に入学してみて、どんな環境でしたか。

島根県内に限らず広島県や山口県など、さまざまな地域から学生が集まっていて、多様な価値観に触れることができました。出身中学もバラバラで、私もそうでしたがほとんどがひとりで入学してくる環境です。中学校とはまったく違う、多様な考えを持つ仲間が1つのクラスに集まっている光景は異様で、刺激的な場所でした。

▲高専生の頃の塚原町長。テニス部に所属されていました

―高専生活の思い出を教えてください。

1年生のときは寮の4人部屋で、2年生が1人、1年生が3人という構成でした。私は早寝の習慣があり、遅くまで勉強する他の3人と生活リズムが合わずに苦労しました。寮の廊下を挟んで勉強部屋があり、みんな夜遅くまで机に向かっていましたね。

そんななか、読書用の小さな白熱電球が布団に接触し、黒く焦げて煙が出るというボヤ騒ぎを起こしてしまったんです。1年生の頃の出来事で詳しくは覚えていませんが、ちょっとした騒ぎになったので、今でも印象に残っています。

▲高専生の頃の塚原町長。寮の部屋にて

また、体育祭の学科対抗の棒倒しや騎馬戦はとにかく壮絶で驚きました。4学科の対抗戦で、厳しい戦いだったのを覚えています。騎馬戦は相手を落とすまで続く激しいもので、今では考えられないほどの熱量でした。

加えて、上級生の描くデコレーションも圧巻でした。畳8〜10枚分ほどの大きなパネルに、土木の先輩が描いた馬に乗ったナポレオンの絵は本当に見事で、強く印象に残っています。

―アルバイトもたくさん経験されたそうですね。

はい。ゴルフのキャディや喫茶店、ビアガーデン、警備員、石材店など、さまざまなアルバイトを経験しました。友人に誘われて面白そうだと思い、挑戦した仕事がほとんどです。

そんななか、1年生のとき、寮で同室だった2年生の先輩がバイトが原因で退学してしまいました。また、1年生から2年生に上がる段階で進級できなかった同級生や、逆に進級できずに同級生になる先輩がいて、勉強をおろそかにすると留年するという現実を痛感し、「高専は厳しい場所だ」と感じました。だからこそ、自分は絶対に留年しないようにと気をつけていました。

―成績面ではどのような学生でしたか。

優秀な学生が多く最初は順位が低かったのですが、「自分も頑張らなきゃ」と勉強に力を入れました。徐々に成績も上がり、真ん中くらいには入っていたと思います。ただ、高学年になって下宿を始めてからは、勉強よりも友人との時間が増え、なかなか勉強に集中できなくなっていきました。

それでも製図は得意分野で、もともと手先が器用だったこともあり、全国大会で2年連続金賞をいただきました。当時はパソコンではなく鉛筆で描き、B1サイズ程度のケント紙と呼ばれる紙に仕上げる形式です。几帳面な性格もあってか製図は好きで、自分に合っていたと思います。

ただ、卒業時に提出する製図は、スキーで右手首を怪我してしまい、友人に頼んで書いてもらったという苦い思い出もあります。鳥取の大山スキー場で手首にエッジが当たり、筋を切ってしまったんです。当時はとにかく仕上げて提出しなければという一心で、友人に頼みました。

渋々のUターンが、地域と向き合う始まりに

―高専卒業後は広島市役所に入職されています。公務員を目指したきっかけを教えてください。

当時、土木系の学生は公務員になる人も多く、自分も自然とその道を意識していました。中学時代の作文にも「公務員志望」と書いていた記憶があります。国家公務員や島根県職員の試験に落ち、「これがダメなら行くところがない」という気持ちで最後に広島市の試験を受け、無事に合格をいただきました。

広島市役所では、道路建設課と道路計画課で2年間勤務しました。本庁勤務で図面作成も行いましたが、調査物の処理や会議資料の作成など事務的な仕事が中心でした。

▲広島市役所時代の友人のみなさんと

―頓原町(とんばらちょう)役場へ転職された経緯を教えてください。

広島市役所に勤めていた頃、祖父や親から「そろそろ地元に帰ってきてほしい」と言われ続けていました。正直、当時はまだ広島にいたい気持ちがあったのですが、2年目に本腰を入れて試験を受けて合格し、渋々ですが地元である頓原町に戻ることにしました。

そのようななか、入職2年目に大規模な豪雨災害が発生し、公共土木施設災害の担当として道路や河川の復旧工事にあたることになりました。当時は設計業務の外部委託は少なく直営で進めており、昼は現地測量、夜は図面化、復旧工法の検討、設計書の作成と、連日遅くまで仕事が続きました。査定を終えた箇所は、実施設計書に落とし込んで工事を発注し、同時に国への補助金申請も行っていました。

他課からの応援や、建設課OBの方々の支えがあったことは、今でも忘れられません。特に印象に残っているのは、道路災害で「谷止工(たにどめこう)」という復旧工法を採用したことです。山からの土石流で路肩ごと被災した現場に対し、建設課OBの方が「谷止工はどうか」と提案してくださいました。通常の道路災害ではあまり使われない大胆な工法でしたが、無事に採択され、実現できました。

また、災害関連事業として6箇所にわたる復旧・改良工事を実施したことも、当時は珍しい取り組みでした。現場ごとの状況に応じた柔軟な判断と提案が求められ、災害対応を通じて多くの学びを得た経験です。

▲頓原町役場に勤めていらっしゃった頃の塚原町長

―その後、企画調整課に異動されています。

企画調整課はダム対策を担当する課でして、島根県百年の計といわれる「斐伊川神戸川治水事業」の一環である志津見ダムの建設事業に約9年間携わりました。

町内外で97世帯が移転対象となり、移転者の生活再建や移転地の造成工事、集団墓地の整備など、多岐にわたる対応が求められました。新たな土地で生活を始める方々の不安に寄り添い、できる限り希望に沿えるよう、一人ひとりと丁寧に向き合いながら取り組んだ仕事でした。特に町内への集団移転に伴う代替宅地の造成工事や、地元を離れた方でも最期は地元のお墓に入れるようにと、集団墓地を整備したことは思い出深いです。

▲完成した志津見ダム(左)と、それを背景に記念撮影をされた塚原町長

その後、総務課に異動し、財政業務を中心に、消防防災や選挙事務にも携わりました。また、赤来町との合併協議会では新しい町の姿を描く業務にも従事。2005年1月の合併で「飯南町」となりました。

振り返ると、どんな業務・立場であっても大切にしていたのは「誠心誠意」です。祖父から言われ続けた「真面目に」という教えを胸に仕事に取り組んできました。公務員として「真面目」は当たり前かもしれませんが、さまざまなことに責任を持ち、最後までやり遂げることが大切だと思っています。いい加減なことはせず、心を込めて正面から取り組む。その信念は、今も自分の軸となっています。

―飯南町役場でのキャリアと、町長就任までの流れを教えてください。

合併後の飯南町では、企画財政課長や地域振興課長など、比較的早い段階で課長職を務めさせていただきました。そして、旧赤来町出身で、4期16年務められた前町長の4期目に副町長としての打診を受けたのです。

前任の副町長は県からの派遣だったため、次は地元出身者をという期待があったのかもしれません。副町長として仕事をするなかで、住民の幸せを第一に考える意識が、より一層強まりました。もちろん、公務員として当然のことかもしれませんが、その重みを改めて実感する時間でもありました。

そして前町長の退任にあたり、「次を託したい」とお声をかけていただきました。以前は町長になるなど考えたこともありませんでしたが、周囲の期待や状況に背中を押され、立候補を決意し、現在2期目を務めています。

▲飯南町町長1期目の就任式での1枚

住み続けたいまちへ。町長としての挑戦

―現在取り組んでいる施策や、町のビジョンを教えてください。

公約では、「子どもたちの声が聞こえるまちづくり(少子化対策)」「安心・安全なまちづくり」「誇れる産業が継続できるまちづくり」「定住を進めるまちづくり」「歴史文化を感じるまちづくり」を掲げています。

特に力を入れているのが「移住定住」と「地域医療福祉」の分野です。移住定住に向けた取り組みでは、40歳以下のご夫婦を対象とした住宅制度を導入しています。屋根や外壁、クロスなどを自分たちで選べるセミオーダーの平屋一戸建てに25年間住み続けると、住宅が無償譲渡される制度です。今年3月にも新しい住宅が完成し、都市部からお子さま連れのご夫婦がIターンで移住してくださいました。

▲飯南町の定住賃貸促進住宅

今後の課題は産業の振興です。住宅を整備するだけでは若者に移住してもらえません。若者が就きたいと思うような仕事の創出が、次に必要なことであると考えています。

次に、地域医療福祉分野の代表的な取り組みが、町内唯一の無休対応の病院として機能している「飯南病院」の維持と、医療従事者の確保です。医学生に対する入学金や学費などの支援制度を設け、地域の医療体制を守るための取り組みを続けています。

▲町立飯南病院

飯南町の高齢化率は40%を超えています。そのため、「住み慣れた場所で最期まで暮らせる」町を目指し、医療・福祉と連動したまちづくりが目標です。

今後は、人口減少対策への取り組みにも力を入れていきます。コロナ禍以降、人口の自然減に加えて社会減も進んでいます。先ほどもお話ししましたように、若者が地元に帰りたくなるような仕事や産業の創出が求められていると考えています。

また、歴史文化を感じるまちづくりにおいては、出雲大社の神楽殿の日本一の大しめ縄(長さ13.6m、重さ5.2t)を飯南町で製作奉納しており、現在7本目となっています。全国の神社からも多くの注文があり、しめ縄づくりの技術を伝承しています。

▲出雲大社神楽殿の大しめ縄

―飯南町の将来像についてお聞かせください。

2025年4月から第3次総合振興計画がスタートしました。この計画の基本理念は「小さな田舎(まち)からの生命地域宣言」。そして将来像として掲げているのが「笑顔と誇りを未来へつなぐまち 飯南 ~豊かさの継承と創造への挑戦~」です。

「住みたい」「住み続けたい」「住まわせたい」と思える町として、10年後も住民が笑顔で、誇りを持って暮らせる飯南町を目指しています。

▲飯南町の町制施行20周年を記念した式典にて

―リフレッシュはどのようにされていますか。

家庭菜園と磯釣りが趣味です。家庭菜園は、母や祖母が使っていた畑を自分が管理するようになったのがきっかけで始めました。やってみると面白く、春はじゃがいも、夏はトマトやナス、きゅうり、秋は白菜や大根、山菜なども育てています。朝早く起きてウグイスなど鳥の鳴き声を聞きながら畑に出ると、自然と心が整っていくのを感じます。

釣りは、職員時代に多いときは2週間に1回ほど出かけていましたが、町長になってからは年にわずかほどになりました。それでも、海に立つと気持ちが切り替わり、「頑張ろう」と思える大切な時間です。

▲磯釣りでヒラマサを釣り上げる塚原町長

―最後に、高専生へのメッセージをお願いします。

高専は自由で開放的な環境です。1年生から5年生までの幅広い年代がともに学ぶことで、専門性に加えて社会性や人間性も自然と養われます。私自身、高専に通ってそのように感じましたし、娘も松江高専に進学したことで、親の立場からもその魅力を実感しました。

専門性・社会性・人間性を兼ね備えた高専生は、社会に出てもすぐに適応できる力を持っていると思います。企業や自治体からも、そうした人材は強く求められています。

▲お孫さんと一緒に

高専での学びや出会いは、きっと将来につながっていくでしょう。私は今、行政全体を担う立場にありますが、その土台には高専での学びや、恩師・友人たちの支えがありました。

どうか自由でおおらかな環境の中で、自分のやりたいことを見つけて、思いきり挑戦してください。学生の皆さんのご活躍を心から応援しています。

▲現在の塚原町長。隣は同じく飯南町の曽田副町長

塚原 隆昭
Takaaki Tsukahara

  • 島根県飯南町 町長

塚原 隆昭氏の写真

1983年3月 松江工業高等専門学校 土木工学科(現:環境・建設工学科) 卒業
1983年4月 広島市役所
1985年4月 頓原町役場(2005年1月の合併により、飯南町役場)
2010年4月 飯南町役場 企画財政課長
2016年4月 同 地域振興課長
2017年4月 飯南町 副町長(2020年11月 退任)
2021年1月より現職(現在2期目)

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