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チャンスは足元にある! 20年間の国語教員の経験を生かし、高専で叶えたいこと

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公立学校の教諭を経て、現在は釧路高専で国語を担当されている高松明日香先生。大学生の頃に、国語の面白さを感じたそうです。「手話と機械をつなげたい」ともおっしゃる高松先生に、前職のお話や、高専で叶えたいことについて伺いました。

子供の頃から先生に憧れていた

―高松先生は幼少期から先生を目指されていたのですか。

そうなんです。卒業するときに夢を聞かれますが、幼稚園のときは幼稚園の先生、小学校のときは小学校の先生、中学校のときは中学校の先生、高校のときは高校の先生、大学では大学の先生になりたいと、一貫して先生という職業に憧れていました。

ただ、中学校以降は反面教師として目指していました(笑) 「私だったらこんなことしないのに」と思うことが多かったのです。

また、高校生の頃、担任の先生に「先生になりたい」と伝えたら、「やめといた方がいいよ」と言われたこともあります。今思えば「先生の仕事はハードだよ」という意味だったと思うのですが、当時は理解できませんでしたね。

高校時代、友人たちと修学旅行先で撮影された写真。

(備考)
中学・高校時代は文学少女。修学旅行では買い物に走る女子が多い中、しっかり歴史探訪を楽しみました。高校2年のときに応募した「青少年有島武郎文芸賞」では最優秀賞なしの優秀賞を取ったことも。題名は、「葭(よし)揺れる季節」少女から女性になる繊細な心情を綴った短編詩集でした。北海道新聞に掲載されました。そのほかにも作文コンテストで入選することが度々ありました。しかし、高校の進路は理数科。底辺を這いつくばる高校時代でした。
▲高校時代の高松先生。当時は文学少女で、修学旅行では買い物に走る女子が多い中、しっかり歴史探訪を楽しみました

―昔から一貫して先生になりたいと思っていらっしゃったのですね。

そうはいっても、私が教職の道に“本気で”挑戦してみようと思ったのは、大学を選ぶときです。結果、教育大学に進学しました。

釧路高専で働いていると、自分のやりたいことに向かっている学生が多い中、時々「進路を間違った」と学生が伝えてくれることがあります。とある学生は、地元という理由で進学したそうですが、いざ入学したら遠いところから来ている同級生がいることを知り、「後悔はしていないけれど、もしかしたら自分にも別の選択肢があったかもしれない」と言っていました。

私も同じで、「本当は総合大学という道もあったのでは」と今は思います。ただ、自分が失敗したと思う経験も、今の仕事にとっては無駄ではないと思えるので、結果的には良かったです。好きな道を進んでいくことも共感できますし、選んでみたけどやっぱり悩んでしまうことにも共感できます。

カナダの横断歩道にて一人こちらを向いている大学時代の高松先生の写真。

(備考)
大学二年生。生まれて二回目に乗った飛行機がカナダ行きの一人旅でした。
伯母の知り合いが泊めてくれるというのでカナダのトロントへ。その「伯母の知り合い」の顔も知りません。とにかく同じ方向に行きそうな人に声をかけて付いて行き、無事飛行機には乗れたものの、機上でバンクーバーでトランジットがあると判明し半泣き。見かねたカナダ人のおばさまが、自分はバンクーバーで降りるにもかかわらずトロント行きの乗り換え場所まで付いて来てくれました。しかし、おばさんはトロント行きの航空券がないので改札を通れないはず。今思えば、途中で改札の係員に詰め寄っていたから、「この子を送っていくから通して!」と交渉していたのでしょう。もしもう一度会えるなら、あのおばさんに会ってお礼を言いたいですが、どこの誰とも知れず…。その代わりに、困っている旅行者には積極的に声をかけることにしています。
▲大学二年生の高松先生。生まれて二回目に乗った飛行機がカナダ行きの一人旅でした

平安時代の「男女入れ替わり物語」に惹かれる

―大学の時に面白い物語のご研究を始められたそうですね。

教育大学は入学後に学科を決めるシステムで、国語科の先生に改めて古文の説明をしていただいたことがあります。すると、「言葉のルーツがここにある」と興味が湧き、「考え方のルーツもそこにあるはずだ」と思いました。自分の思考のルーツを知りたくなったのです。

そのため研究では古文を選んだのですが、中でも平安時代後期の物語『とりかへばや物語』(作者不詳)を題材にしました。きっかけは、北海道出身の小説家である氷室冴子さんが原作の、『とりかへばや物語』を新しい視点で解釈した漫画『ざ・ちぇんじ!』を読んだことです。

男女のきょうだいが入れ替わることで様々なトラブルに巻き込まれるというあらすじで、「平安時代にも男女入れ替わりという面白い設定の話がすでにあったのか」と驚き、ぜひ原本をあたってみたいと研究題材に選びました。

―『とりかへばや物語』のどういった部分を研究されたのでしょうか。

実は『とりかへばや物語』は「源氏物語の模倣の物語」と一括りにされていたのですが、源氏物語の舞台のほとんどが京都の宇治である一方、『とりかへばや物語』は宇治の他にも、奈良の吉野が舞台として出てきます。ただの源氏物語の模倣ではなく、吉野が設定された意味を研究の軸にしていました。

研究で扱った『とりかへばや物語』の文献の写真
▲研究で扱った『とりかへばや物語』

源氏物語が書かれた当時は宇治と都(平安京)は遠い距離にあると認識されていたため、宇治は異空間という設定でした。ただ、『とりかへばや物語』は源氏物語より時代が進み、宇治と都との精神的距離がかなり近づいています。宇治だと入れ替わりをするための空間としての役割が薄くなるので、さらに神秘性が付与されている吉野という異空間で入れ替わりが行われたと考察しています。

また、『とりかへばや物語』を明治ごろに「退廃的」と表した有名な評論家の方がいて、それ以来、研究する人がいなかったんですよ。「これほどあらすじは面白いのに、なぜ退廃的という表現がされてしまったのか」と思い、こちらも調べ始めました。

ここからは『ざ・ちぇんじ!』では語られなかったところですが、女の人が男の人の格好をしていたので、「あまりにも美しい男がいる」と押し倒されたという話があります。そういったことが退廃的と言われる理由のひとつと考えられます。ただ、楽しく読まれていたからこそ、『とりかへばや物語』は今に残っています。今のジェンダーの捉え方や、当時の時代背景と一緒に合わせて読んだら、より面白いですよね。

―高専の教員になられるまでは、公立学校の国語教師をされていたそうですね。

小学校、中学校、高校と国語教員の経験があります。中でも中学校の国語教員歴が長いですね。新卒の時は何もできなかったので、「笑顔・挨拶・オープンマインド」を意識してやってきました。それは高専に来た今も変わっていないです。

ただ、中学校で教えていたときの国語は「みんなから嫌われない教科」でしたが、高専に来ると「みんなが嫌いな教科」になりました(笑) 「古典と縁が切れると思って進学したのに」と言われることもあります。

転勤の際に教え子たちからもらった手紙や色紙の写真
▲転勤の際に教え子たちからもらった手紙や色紙。それまで取り組んできた授業の成果だと思って大切にとってあります

時には、高専生に教材研究の相談をしています。「私はこういった授業がしたい」と話すと、いろいろなアイデアくれるので、それを実際に教室でやってみるんですよ。国語の授業は質問しても、答えてくれる人がいないと成り立ちません。「文章を読んで、それをどう読み取るか」を学生が答えてくれないと、読み解く面白さや国語を学ぶ意義にたどり着かないので、いろいろと工夫しています。

言葉は全ての基盤なので、将来も国語は絶対に使います。だから未来の仕事に役立つ分だけでも力をつけてほしいと思いますね。

福祉と技術をつないでいきたい

―高松先生が釧路高専の国語教員を志望したきっかけを教えてください。

転職するぐらいの覚悟で踏み出しました。一歩が踏み出せたのは、自分が生徒に言っていた「やらない後悔よりはやって後悔」という言葉のおかげです。言っているからには、自分も挑戦しようと思いました。

私が新卒の頃は、女性がキャリアを積むには風当たりの強い時代でした。また、教員で復職している方は、親が元気で子供の面倒を見てくれる環境にある方だったんです。深夜に帰るのは当たり前の時代に生きていたので、キャリアの点では悩むこともありました。

よく言われる「高専女子学生を増やす」という目標だけあっても、周りにモデルケースがいないと、自分の将来は描けないですよね。振り返ると「女性で、いろいろな職場を経験して、さらに国語教諭である」というキャリアは自分の利点だと思います。

―今後、高専で実現してみたいことを教えてください。

最近の学生全体を見ていますと、自分たちが学生だった頃と同じ感覚で教えていては、学生の理解が進まない印象を受けます。ですから、高専生に教える際には、今の小学校や中学校で行われている授業をイメージして進めたほうが分かりやすいのではないかと考えています。私自身、小・中・高の子どもたちを指導してきた経験がありますので、その中で培った子どもたちの成長過程に関する知見を、高専の専門性の高い先生方と共有しながら、より良い形に改善していけたらうれしいです。

また、私は大学生のときから手話を学んでいて、現在もろう者の方々と交流を続けています。その中で、最近はカメラに手話を読み取らせ、その意味を教えてくれる道具が開発されつつあると知り、とても驚きました。昔は難しかったことが、次々と便利に実現されていくのを感じます。

昨年度取得した全国手話検定の3級合格証の写真
▲昨年度取得した全国手話検定の合格証。今年は2級取得を目指すとのこと

こうした技術の進歩は、高専生の得意分野でもありますよね。困っている人が目の前にいれば、「自分に何かできることはないだろうか」とすぐに動き出せるのが、高専生の魅力だと思います。私自身も、手話と機械をつなぎ合わせることで、より多くの人の役に立つ新しい仕組みづくりのお手伝いができたらと考えています。

―最後に高専生にメッセージをお願いいたします。

私は先生、つまり「先に生きている人」ですが、専門的な知識では学生に教えを乞うことが多く、本校の学生たちを尊敬しています。

一方で、高専生は一つのことが好きな人も多い反面、それ以外のことが目に入ってこず、チャンスが足元に転がっているのに、それを蹴り飛ばして歩いているような気がします。一般教科も含め、交友関係も含め、今の自分にとって「関係ない」と感じるようなことであったとしても、今、高専で経験できることは今後の人生で無駄になることはありません。

私は教員採用試験に落ちたあと、お金を貯めて海外を放浪したことがあります。最初の1ヶ月だけ語学留学して、そこからはオーストラリアでワーキングホリデーをしていました。1年いるつもりでしたが、半年ほどで教員採用試験に受かったので日本に戻ってきたんです。回り道のように見えても、後に思い返してみると必要だった体験の一つです。

オーストラリアのワーキングホリデー先にて、現地の欧米人向けツアーの参加者と肩を組んだ高松先生の写真。

(備考)
当時人気のテレビ番組「進め電波少年」の企画で行われた猿岩石やドロンズの旅にあこがれ、ずっと温めていた「働きながら旅をする」夢。教員採用試験に落ちた機会を利用してとうとう決行!ワーキングホリデービザを取得し、都市間バスやヒッチハイクをしながら、4~5か月かけてオーストラリアを半周しました。途中、住み込みのフルーツピッキングや老人施設のアルバイトをしたり、現地の欧米人向けツアーに参加しながら移動。とても楽しい旅でしたが、そんなときに限って教員採用試験に合格。1年間の予定を切り上げて帰国しました。
▲26歳の時、オーストラリアでのワーキングホリデーにて。現地の欧米人向けキャンピングツアー
オーストラリアにてオレンジのフルーツピッキングをする様子の高松先生
▲ワーキングホリデーでは、都市間バスやヒッチハイクをしながら、4~5か月かけてオーストラリアを半周しました。写真はフルーツピッキングのアルバイト中

私はいつも「面倒だから、やろう」を大切にしています。すべて先延ばしにすると、そのときは楽なのですが、面倒なことをやらなかったら、その先にある体験ができないのです。

高専生には、先に生きている人生の先輩の声にちょっとだけ耳を傾け、あなたが、今は必要ないと思っている本当は大切かもしれないものを、足元から拾いあげるような高専生活を送ってほしいと願います。高専にはチャンスがゴロゴロ転がっていますよ!

高松 明日香
Asuka Takamatsu

  • 釧路工業高等専門学校 創造工学科 准教授

高松 明日香氏の写真

1993年3月 北海道釧路湖陵高等学校 卒業
1997年3月 北海道教育大学釧路校 卒業
1999年3月 静岡大学大学院 教育学研究科 修士課程 修了
1999年4月 北海道内公立学校 教諭(小・中・高)
2018年4月 学習支援員
2022年4月 クラーク記念国際高等学校 釧路キャンパス 非常勤講師
2024年4月より現職

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