東北大学・大学院と進んだ後、宮城県庁で働かれていた小熊博先生。県庁時代に人生が変わる研究と恩師との出会いがあり、それがきっかけで富山高専に着任されました。卓球少年だった小熊先生に、学生時代の思い出や、県庁時代のお話、学生への思いなどを伺いました。
半導体と磁性体のハイブリッド膜を使った研究
―小熊先生は幼少期、卓球少年だったんですね。
小学校4年生の冬に友達に誘われて卓球を始めました。すごく熱心に教えてくれる先生がいて、クラスの10人くらいが入っていたんです。5年生になったらみんな辞めてしまったのですが、自分には合っていたので、そのまま続けました。小学校の時には、あまり勝てませんでした……(笑)
その後、中学2年生の時に団体戦で全中に出場でき、中学3年生の時に、県の中学校総合選手権大会でシングルス優勝することが出来ました。本当は団体戦の優勝を狙っていたのですが、準決勝でチームが負けたんです。それが悔しくてシングルスでは、煩悩なく試合をしていたら優勝しちゃいました(笑)
高校は進学校に進み、勉強と卓球部の両立を頑張りました。僕が入学したのは理数科です。そこでは2年生の時に課題研究があり、1ヶ月ほどグループで光通信をテーマとした実験をしました。たくさん失敗して豆電球を壊しまくったのですが(笑)、「これだけ失敗してもいいんだ」という経験になりました。
また、卓球部では、中学の時に県で優勝しているからこそ、もし高校で卓球の成績が悪かったら「進学校に行ったからダメになった」と言われるのが嫌でしたので、意地で取り組んでいました。
―その後、1年間予備校に入っています。
駿台のお茶の水校に行き、寮生活や総武線の通学を経験しました。学芸大附属や灘や桜蔭や駒場東邦はじめ、参考書に載っているような有名高校から来ている仲間がたくさんいて、非常に楽しかったですね。予備校時代の友人たちとは今でも交流があります。
―大学はどちらに進学されたのですか。
高校で行っていた課題研究で工学系の面白さを感じていたので、東北大の工学部に進学しました。4年生からは電子工学科の研究室に所属し、クリーンルームの中の生活も経験しました。半導体と磁性体のハイブリッド膜を使った研究や、MD(※)の材料の研究をしていました。
※ミニディスクのことで、カセットに代わる存在として1992年に登場した録音メディア。90年代に大きく普及したが、2000年代以降、iPodに代表されるデジタルオーディオプレーヤーの出現によって生産量は減少。開発元だったソニーは2013年に出荷を終了している。
大学院への進学は大学4年生の春に決めました。卓球をしすぎていたので、社会に出る前にもう少し勉強したかったことと、企業のリクルーターの方と話したときに、修士を修了しないと就職は厳しいと感じたことが理由です。もっとも、4年生で念願のインカレの出場権をとれたので、大学院入試の勉強をしながら、卓球をやっていました(笑) 大学まで卓球できたことに対し、両親に感謝しています。
その後、博士課程に進学した後、いろいろあって1回大学を辞めました。教授に「自分で就職先探します」と言って、公務員試験の勉強をし、宮城県庁で働き始めることになります。
チャンスを与えてくれた恩師に感謝
―県庁時代に、人生を変えた出会いがあったそうですね。
宮城県庁では産業技術総合センターに配属されました。その時に、FPGA(※)と出会い、多くの業界人と一緒に仕事ができました。2002年には、恩師である坪内和夫先生と出会い、東北大学 電気通信研究所に受託研究員として受け入れていただいたんです。
※Field Programmable Gate Arrayの略。設計者や購入者が現場(Field)で構成をプログラムできる(Programmable)、デジタル信号を扱う回路(Gate)を多数配列した(Array)デバイスのことで、液晶パネルやコンピュータ、ゲーム機など、様々な電子機器に使用されている。
そこでは坪内先生が無線通信に関する国家プロジェクトを始めていて、プロジェクトを通じて、アカデミックのみならず、大手企業、外資系企業、ベンチャー企業との関わりを持たせていただき、無線LANの国際標準化に携わりました。
一番思い出に残っているのは、無線LANの標準化関連の事業で「小熊さん、シンガポールに行きませんか?」とお声がけいただいたことです。2ヶ月に1回は海外へ行っていました。シンガポールのみならず、アメリカ・ニューメキシコ州、カナダ・バンクーバーはじめ、いろいろな場所に行き、人生が変わりましたね。
感覚的な話で言うと、昔は「海外に行っている人はすごい」と思っていたんです。でも、自分が経験して分かったのは、「疲労とマイルが溜まるだけ」ということ(笑) あと、日本人も外国人も、交渉は表の会議ではなく、会議までのネゴシエーションが非常に重要であることが分かりました(笑)
坪内先生に今でも感謝しているのは、「チャンスを与えてくれたこと」です。チャンスを掴むかどうかは本人の力量だと思いますが、そのチャンスが少ない時代に、そのチャンス与えてくださったことにはすごく感謝しています。
また、プロジェクトを通じた研究成果をもとに博士号を取得できました。2009年4月に県庁の企画部 情報産業振興室も併任となり、誘致企業に対する地元IT企業の参入支援やモバイルビジネス研究会、財政課との折衝なども経験し、行政職の醍醐味を味わいましたね。ベクトルが揃ったときの行政組織は、とてもすごいです。当時の上司・同僚とは、今でも交流があります。
それと、FPGA関係では仙台高専の先生方のお力をお借りしたんですよ。ですので、この頃から高専と繋がっているといえますね。
―そんな小熊先生が、富山高専に着任されたきっかけは何だったのでしょうか。
プロジェクトに邁進する一方で、「部下が付かず、自分だけ成長しても良くない」と思っており、教育業界への転職も考えていたところ、たまたま富山高専の電子情報工学科に拾っていたただきました。
―高専では、どのような研究をされていますか。
引き継ぎをしている時に東日本大震災が起こり、「通信環境をしっかりと確保しなきゃいけない」と、末松憲治先生から衛星通信のプロジェクトに声をかけてもらいました。これがきっかけで、無線関連に加え、衛星通信の研究も始めましたね。
今は無線通信に加えセキュリティの研究などを実施しています。無線通信は、無線LANを使った屋内位置推定の研究なのですが、屋内でも屋外と同じぐらいの精度をいかに簡単に実現するか研究していますね。正直、お金をかければいくらでも精度を上げられるのですが、既存の技術でどこまで簡易的にやれるかを考えています。
セキュリティの研究は、学生さんから「やりたい」と言われたからです。今はサイバーセキュリティの研究と暗号系の研究をしています。サイバーセキュリティは、家のセキュリティが甘いところをネット上で見つけるようなイメージですね。暗号の方は、量子コンピュータ用の暗号を使って学生が実装し、評価をしています。
高専生はすごく優秀です。僕は常々、「それぞれの強みで勝負するべき」だと思っているのですが、学生たちは柔軟にテーマを設定していますね。また、「こういう意図でこういう研究があるんだよ」という説明はできるだけ丁寧にするよう心掛けています。
研究は、実際に、手を動かしている人が一番偉い
―小熊先生の教育方針を教えてください。
「環境をつくる」ことですね。あとは「教員を使い倒せ」と言っています(笑) 環境を活かすかどうかは学生次第なので、どんどんチャレンジしてほしいですし、大失敗したとしても、それは全部経験として返ってきます。僕は電子系や材料系の研究から情報系にも関わるようになりましたが、想定していなかった知識が意外と違う分野で使えたりすることがあるんです。
私は、高専時代に、効率的に研究することを求めていません。失敗した経験をたくさん持っている方が伸びると感じています。また、学生の研究なのに、僕の方が細かい部分まで詳しく知っていたら、それはおかしいです。僕の方が方針設定や論理展開、困ったときの対応などの経験値が多いだけで、研究の細かい中身については学生の方が分かっていないといけません。だから、「手を動かしている人が一番偉い」のです。
僕はチャンスをしっかり掴むかどうかで人生が決まると思っています。そして、恩師の坪内先生がおっしゃっていて、僕が好きな言葉である「世界平和は家庭平和から」の通り、家庭や健康も大事にしつつ、チャンスを掴めるようアンテナを立てています。要は家庭で悩みがあったら、クリエイティブなことはできないということです。妻や子供たちにはいつもご迷惑をお掛けしていますが、心から感謝しています。
―現役の高専生にメッセージをお願いします。
チャレンジするためには、まず健康でないといけないと思います。健康を維持するためには運動が大切です。運動すれば嫌なこともその瞬間は忘れられますし、お腹も減るし、ご飯がおいしく食べられますし、疲れて熟睡できます。
あとは挨拶ですね。挨拶ができない人は社会人としてアウトです(笑) ほんの2秒で終わることですが、人間関係を構築するためには絶対に必要ですので、学生には運動と挨拶だけは常に伝えています。
そして、学生にはいろいろな生き方があることを知ってほしいです。身近に卓球コラムニストやジャズピアニストとしてご活躍されている先輩がいるのですが、「高専にいるから工学系に行かなきゃいけない」というわけではありません。何が正解かもわかりません。実際にやってみて初めて分かることがたくさんあるんです。一人でも多く、自分よりもすごい人、自分よりも幸せな人になってほしいと願っています。
小熊 博氏
Hiroshi Oguma
- 富山高等専門学校 電子情報工学科 教授/校長補佐・教務主事
1991年3月 富山県立富山高等高校 理数科 卒業
1991年4月~1992年3月 駿台予備学校 お茶の水校
1996年3月 東北大学 工学部 電子工学科 卒業
1998年3月 東北大学大学院 工学研究科 電子工学専攻 博士前期課程 修了
2000年3月 東北大学大学院 工学研究科 電子工学専攻 博士後期課程 退学
2000年4月 宮城県庁(産業技術総合センター、情報産業振興室)
2002年4月~2003年3月 東北大学 電気通信研究所 受託研究員
2008年9月 東北大学大学院 工学研究科 電気・通信工学専攻 博士後期課程 修了(博士(工学))
2011年5月 富山高等専門学校 電子情報工学科 准教授
2016年4月より現職
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